120831 大楠紀行8(塚崎の大楠3)

   

 大楠までのわずかな距離だが、登りは急である。そうすると視線はどうしても下を向いてしまう。視線の先にカタツムリを見つけた。佐藤さんは、この頃カタツムリを見ることが少なくなりましたねと言う。その言い方が先ほどの「虫捕りに夢中になる子どもが少なくなりましたね」とそっくりである。
 目を近づけるとそのカタツムリの背中に妙なものが付いている。ハエである。家蝿とは違うようだが確かにハエだ。疲れたからとタクシー代わりに使っているわけでもなさそうだし、カタツムリの方も迷惑がっているようでもない。この関係はいったい何なんだろう。
 誰かに踏み潰されてもかわいそうなので、つまんで脇にどける。それでもハエは動かない。見ている(暇だね)とかすかにだが動いてはいる。

120826 大楠紀行7(塚崎の大楠2)

   

 幹周り13.6m。高さ18メートル。根回り38m。昭和38年に落雷で主幹の9m以上が失われたという。その根回りの大きさからするとかつては雄大な姿だったと想像できる。上部がなく、洞のできた姿からまだ見たことはないが屋久島のウイルソン株に例えられるそうだ。その洞の中から見上げると、空の姿も木の肌も違った形で見える。
 それにしてもこれだけの巨樹が、それも3本も市街地にあるというのは珍しい。これらの巨樹たちが生まれた3000年前のことは想像の外にあるが、思うだけで心がときめいてくる。当時の人々はこうした巨樹をどんな思いで眺めていたのだろう。

 途中で「同窓会」の話を優先したことで大楠紀行が半分で途切れてしまい、やっと元に戻すことができました。話は全く違った内容になりますが、ニックネーム「遊ぶ人」が誰なのかずっと気になっていました。普段は誰かなと思ってもそれを追求しないのがこうした時のエチケットだと思っていたのですが・・・・。私にとって「遊び人(あえてこう呼びます)」と呼べる人は一人だけです。遊びに出かけたままとうとう帰ってこなかった人です。彼かなと思う根拠は「7月29日の「リバーウォークサーカス3」でのコメントです。「チャップリンもクラウンのことを描いていた」と書いていたことです。遊び人もたしかこうした映画の話が大好きだったからです。
 もしそうだったら、また写真を送ってくれないかな?!

120822 35年ぶりの同窓会3

夏水仙の花の中にもぐりこんでいました。

 

 古典の学習では、奥の細道、徒然草、方丈記、枕草子の冒頭を二つ以上暗記することを課題にした。これは中学校にいる間ずっと続ける。だから、shalalanさんではないが「何を習ったかほとんど記憶に残っていない」が、古典の暗唱を未だにできる生徒は多い。そして、同窓会に呼ばれるたびにマツバくんではないが、私の前で暗唱大会が始まる。いずれにしろ授業の内容なんて残るはずないんだから、このやり方は正解だったと自慢できる。授業でパスできなかった生徒は自信がついたら職員室にやってきて他の先生のいるところで合格するまでやらされた。何てイヤミな教師だったんだろう。
 「静かに怒る先生がとても怖かった」とは、静かで、穏やかで、気配りのケンと呼ばれた(?)私としてはどう解釈していいのやら。たしかに大声を出して怒るタイプではない。くどくど叱るのも嫌いだから手っ取り早く罰(耳回し・ブタ握り・ケツバットから)を選ばせて早めに終わらせていました。だから扱い易い教師だったと思うんだけど、shalalanさん、どうでしょう?

120820 35年ぶりの同窓会2

庭の草をとっているとカエルがあっちこっちからやってくる。あいさつではないからひょっとして私の動きがエモノ(虫)の動きと思ったのではないだろうか。

 

 shalalanさんのコメントの中に「何を習ったか、ほとんど記憶に残っていないけれど、朗読していた声が今も思い出されます。静かに怒る先生がとても怖かった生徒です」とある。他の生徒にも、それも何人にも同じことを言われた。その当時の国語の教科書に井伏鱒二の「山椒魚」があった。それを私が朗読したそうで、冒頭の部分「山椒魚は悲しんだ」が特に印象に残っているのだと言う。よっぽどカッコウ付けて読んだんだろうな。「ほとんど記憶に残っていない」にしては何人もの人たちの記憶に残っているなんて、なんて幸せな教師人生なんだろう。
 記憶に残っているということがもう一つあった。「先生に習った古典の暗唱、今でもできるで」と言いながら「ツキヒハハクタイノカカクニシテ、ユキコウトシモマタタビビトナリ」と始める松葉くん。隣では「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」と、ごめん!名前を思い出せない。(つづく)

120818 35年ぶりの同窓会で

夜に撮ってみた「夏水仙」です。

こんにちは!35年ぶり(注1)にみんなに会うことができました。佐伯から帰ってきて下毛郡(注2)での初めての学校が耶馬渓中学校でした。その時みなさんは3年生でした。だからわずか1年だけの触れ合いでしたが、思い出に残る学年でした。今日の幹事の中島くんには会うたびに「なんで同窓会をしないんだ」と文句ばかり言っていたので、ホントに今日という日が楽しみでした。
これまでの35年間にはいろんなことがありました。50になる前には生きるか死ぬかの大病もしました。いまでは病気の前より元気になり、年に2回は久住に登る仲間もできました。だから、今ここにこうして立てて、みんなに会うことができたことに感謝しなければとつくづく思っています。
恩師あいさつも長くなると嫌われます(注3)。それではこの後の時間を楽しみたいと思います。

(注1)実際は15年前にも同窓会はあったし、私も出席したそうです。中島くんにあとで言われて愕然としました。
(注2)大学の友だちに「下毛」にある中学校に転勤したと連絡したら、「お前にぴったりのところに行ったな」といわれてしまいました。九州校長会の鹿児島大会の時、佐多岬での昼食会場の看板に書かれていた「下毛郡校長会御一行様」に誰がいたずらしたのか「したげ」とフリガナが打たれていました。
(注3)私の前の恩師あいさつが長くてながくて正直うんざりしたので、俺はすっきりしたあいさつにするぞと張り切りました。もちろん、実際にはこんなに短くもすっきりとしたものでもありません。

120816 大楠紀行6(塚崎の大楠1)

   

 武雄にはもう一本、大楠がある。塚崎の大楠である。34号線に戻る途中で看板に従い右に折れる。何メートルも行かずに「塚崎の大楠」という矢印のついた看板を見つける。ところがその矢印がどこを向いているのかよく分からない。
 近くにいた人に聞くとなんと「私は愛知から仕事で来ている人間なので、すいません、分かりません」という。「すいません」と言われたのには何と答えていいものやら。こちらの方が恐縮してしまった。帰りにもう一度会うと「見つかりましたか?」と声をかけてくれる。素晴らしい自然に触れる楽しみもある(もちろんそのために出かけているのだが)が、こうした何気ないちょっとしたふれあいが、心が温まり、なんとも嬉しい。

120813 大楠紀行5(武雄の大楠3)

   

 大楠までの上りで小さな女の子とお母さんに会う。彼女は右手に網を持ち、左手に何かを握っている。すれ違うときに彼女から声をかけられる。「セミを捕ったんよ!」自慢そうにそう言い、左手を広げる。たしかに小さなセミが握られている。そうか、もうそんな季節になっていた(7月7日)のか。
 「すごいね、気をつけてもっとセミを捕ってね」という。なんかほのぼのとした気分になった。それは佐藤さんも同じだったようで、「かわいい子ですね。今は虫捕りに夢中になる子どもが少なくなりましたね」という。その子が女の子で、髪は天然のもじゃもじゃしているところが素敵だ。
 彼女にとって素敵な夏でありますように!

120810 大楠紀行4(武雄の大楠2)

   

 幹周り20m。高さ30m。川古の大楠のあっけらかんとした明るさとは対照的である。周りに多くの木を従え、少し暗く、あふれんばかりの湿気が周りに広がっている。この木も樹齢3000年とあるが、そうだろうなと思わせる雰囲気を持っている。

   

 急な坂の途中に成長しているため根の発達が凄まじく、幹なのか根なのか判然としない。少し前かがみになった姿はのしかかってくるようで迫力満点だ。その姿から龍が巻きついているといわれているが、そう思わせるだけの迫力満点だ。