100331 おいしいお茶

4枚頂いたうちの1枚

 
 携帯をかけ、「もしもし・・・」と言ったきりあとが続かない。電話から聞こえてくる「はい!」という声が懐かしくて・・・・。「あっ!、彼の声だ」。もう25年は経っているのに、耳に入ったとたん彼の声だとはっきり分かった。

 耶馬溪中学校から三光中学校へ異動した時、、同じ国語科の若い先生と一緒になった。たしか教員になって3年目だったと思う。新卒3年という制度のため1年だけの付き合いだったが、とても印象に残る先生だった。以前「真摯」という言葉を使ったが、まさにその言葉通りの方だった。私も2度の文部省の地域指定に担任として、また、組合運動にも関わって、素晴らしい人たちを知ることができ、長い教員生活のうえで最も充実した時代だったと思う。そうした時に触れ合うことのできたことを幸せだったとつくづく思う。

 その彼とブログを通してまた交流を持つことができるようになった。「・・・いま西部中学校の校門前の桜並木が3分咲き、校庭の桜も土日が見ごろです。宇佐別府道路四日市インターを降りてすぐです。お近くを通ることがありましたら是非お立ち寄りください。おいしいお茶かコーヒーを、お好みで。ちょっと一服していただけると思います」とコメントが届く。

 インターを降りたところでわざわざ待っていてくれた。学校まで案内するというが、校門前の坂道を見てその意味が分かった。現在の西部中学校は旧四日市高校の跡地に移転したのである。下の娘が1年間だけ臨時講師として通った高校であり、何かは忘れたが一度だけ彼女を高校まで送っていったことがある。その時、この坂道が印象に残っていた。なぜって、いかにも学校、それも高校の校門前の情景にぴったりではないか。

 校長室でおいしいお茶(今日のためにウーロン茶の一種「鉄観音」の封を開けてくれたという)の接待を受け、なつかしい思い出と満開の桜とすばらしい書(4枚もいただいた)と、ほんとにすばらしい時間を持つことができた。おまけに、事務の先生を紹介してくれて、その先生からもブログを見てくれていることをうかがった。あつかましくも「コメントを!」とお願いしたが・・・。 

100330 CM(サントリー)

いろいろ探したのですが、内容にあった写真を見つけることができませんでした。

 

 かつて、サントリー・資生堂・松下電器の三社がCMの御三家と呼ばれた時代があった。その中でもサントリーが一歩抜きん出ていたように思う。

 S58年にはサントリーからローヤルのCMでランボーが出た。小人・イグアナ・砂漠に大道芸人。おまけに音楽も中近東風ときているから、これがどうしてウイスキーの宣伝なんだと作った本人のサントリーの社内が賛否両論に分かれ、侃侃諤々だったとか。ところが、このCMは文明批評とまで言われ、中年のインテリー層を含む若者に圧倒的に支持された。専門家といわれる人たちよりも一般大衆の方が時代の流れに敏感だったという好例ではないだろうか。ランボーのように自分の思うままに、やりたい放題の生き方が閉塞した社会に生きていく人たちに受けたのである。今の時代にも通用するCMではないか。と、今では屁理屈をこねるが、初めてこのCMを見た時の印象は「なんじゃー、こりゃー」だった。

 この58年には缶ビールの宣伝にペンギンのイラストを使っている。あのイラストは宣伝部の女子社員が描いたものがもとになっているという。それに松田聖子のコマーシャルソングがついて大ヒットしたのである。ペンギンのひとしずくの涙が印象的だった。

 もう一つ、同じ年に田中裕子を使った樹氷のCMがある。彼女の「タコがいうのよ」という得体の知れないつぶやきが話題になった。

 この58年はサントリー宣伝史上、、特別な年であったようである。

100325 キャロル・キング

   

 テレビの画面に「キャロル・キング」が映し出されていた。たまたまつけた、それがBS-TBSであっただけ。おまけに夜の11時を過ぎていたために「SONG TO SOUL ジェームス・テイラー」という番組に出会った。そこで彼が歌っていた曲「You’ve Got A Friend」に聞き覚えがあった。その曲は私にとっては「キャロル・キング」の歌であるはず。「All you have to do is call/あなたが呼んでさえくれたなら And I’ll be there/私はすぐに飛んで行く You’ve got a friend/あなたには友達がいる」

 私より3つほど年上だった。だから、もう70近くになっているはずなのに、なんと素敵な、かわいい人なんだ。素敵に年をとったなあと思う。私たちの年代にとって「Carole King」という名前は特別な響きを放っている。フォーク全盛からビートルズに時代は移り、彼らが時代に与えた高揚も沈静化していく醒めた時代の中で、さりげなく、心地良く、しかし確かな手応えとともに彼女の歌声は、私たちの心の中に浸透していった。

 最初は残念ながら彼女の歌からではなく、彼女のこのかわいさから好きになった。「けっして美しいとは言えない普通っぽい容姿と けっして超一流ではない歌唱力もまた、ひとつのポイントだった」とある評論に書いてあったが、そうかな、美しいと思うけどな。ピアノに向かい、淡々と歌いつづる彼女は本当に美しい。昔むかし、一度だけ彼女に似た人とすれ違ったことがある。 

 大傑作アルバム『TAPESTRY(つづれ織り)』が世に出たのが1971年2月。このアルバムはその年のグラミー賞の主要4部門を制覇した。売り上げは2,200万枚を超えるという。その絶頂の6月にカーネギーホールでコンサートが行われた。その時のライブが四半世紀経って(1996年)CDとしてよみがえった。いまそのCDが私の手の中にある。 

100322 はなやかな3月の庭

 「」の木もたくさんの花をつけたがすぐに落ちてしまった。同じ時期だったか、「マンサク」が咲き、今も咲きつづけている。図鑑では「早春に黄色の花が・・・・・」とあるが、我が家のマンサクは赤である。もう一本「白のマンサク」も隣にあったが、5年前に突然枯れてしまった。

 そうそう、忘れてならないのが「椿」。母親が植えた椿が大きくなっていたが、変な誤解から切り倒されてしまった。それ以来、機会を見つけては植えてきた。ほんとは母親が植えた「藪椿」が好きだったのに、庭にある6本のうち5本は大振りなはなやかなものばかりである。一本だけ「恋」の文字のついた名前とその名にふさわしいはかなげなピンク色に誘われて植えた「侘介」がある。昔、宇佐神宮の裏の暗い小道を通っていた時に、イチイガシの林の中に見た「藪椿」の紅い色が忘れられない。ひんやりとした空気の中で、その道の南側には置き忘れ去られたような小さな集落があって、そこだけが冬の中の陽だまりを作っていた。ただ歩いていく私に林の中から春告鳥の声が届いてきたのを昨日のことのように覚えている。 
 野鳥が運んできた種から大きくなった名も知らない木の下に「クリスマスローズ」が咲いている。ある方からいただいたものだが、砂地の我が家の庭ではこれまで定着したことがなかった。今回はなんとか一株だけ頑張ってくれたようだ。色は薄い小豆色で、できたら白い花があれば、と思う。催促のつもりだが、こうしたことから友情は深まっていくのではないだろうか。

 北側の台所の窓から見る背戸には「雪柳」がこぼれるほどの小さな白い花をつけている。名前の通り「雪」が降り積もっているように見える。そばには鮮やかな黄色の「レンギョウ」。その下には「ツルニチニチソウ」。

 はなやかな3月の庭である。

100320 にぎやかな3月の庭

   
     

 冷たい空気の中でロウ細工の花をつけていた「素心ロウバイ」と「満月ロウバイ」が散って、後には甘酸っぱい香りで存在を知らせていた「沈丁花」も色あせて、一時のにぎやかさも落ち着いた庭に戻っていった。 

 それが3月の声を聞くとにぎやかな、そして、はなやかな衣装を身にまとって春はやってきた。まず「ミズキ」たち。「土佐ミズキ」と「日向ミズキ」。いつもどちらか分からなくなる。次に「サンシュユ」。葉の出る前に黄色の小さな花をたくさんつける。別名「春黄金花(ハルコガネバナ)」と呼ばれるが、朝の光を浴びて輝く様子はその名の通りだ。その横には「キブシ」。これも葉の出る前に、淡黄色の小花がたくさん集まり、長さ3~10㎝の房状になって枝先から垂れ下がる。これはある方がさかんに吹聴するものだからそれにつられて植えてみた。それらの木の下にはやはりかわいい房状の小花をつけた「アシビ」が2本。これはさだまさしの「まほろば」という歌にあった歌詞「・・・・あせびの森のマヨイギに・・・・」の「マヨイギ」が「馬酔木」をそのまま読んだものだと分かって、その記念(?)に植えたものである。もう10年以上は経っているのに植えたときのまま大きくならない。

 「姫コブシ」。これもその名の通りいつまで経っても大きくならない。だけでなく3年前には危うく枯れてしまう寸前までいった。気がついたらほとんど枯れていて、慌てて枯れた部分を切り取り、3分の一ほどになった木に肥料をやり、乾き過ぎないように周りにワラを敷き、水を絶やさないようにした。そのおかげか、ようやく今年、やわらかいうすべにの花を咲かせた。

 キブシの間からは「利休梅(これだけは漢字を使いたい)」が白い蕾をのぞかせ始めた。

100318 子どもたちの公民館まつり

ZENKAI少年太鼓「和」 津軽三味線・丹山流範将会 本耶馬溪子供神楽

 3年前からだった。公民館まつりに子どもたちが参加し始めた。「子どもたちが」ではなく「子どもたちに」参加してもらうことになった、というのが実際の話である。9時から文化の森大学(成人講座)の修了式をした後、公民館まつりの開会行事をするというのが恒例である。ところが、開会行事に参加する人が少なく、ひいてはメインの記念講演まで観客が少ないということになって、事務局はいつもこのことに頭を悩ませてきた。それを解消するために考え出されたのが子どもたちの力を借りるということである。子どもたちの懸命な姿は見る人に感動を与えるし、子どもたちの家族・親族・近所の人たちまでの動員が見込めると踏んだわけである。

 そして、3年前にオープニングを飾ったのが「ZENKAI少年太鼓『和』」である。事務局が期待していた以上の動員力であった。専門的な見方はできないが、たしかに子どもたちが精一杯頑張っている姿は見る人に感動を与えたし、昨年は県の大会で優勝し、静岡県で行われた全国大会に出場し、9位の浜松市教育委員会賞を勝ち取っている。

 これに味を占めて昨年は、宇木優太・高野太輝の中学生従兄弟三味線。中学生でここまでできるのかとだれもがびっくりしたはず。息の合った軽快かつ力強いバチ捌きに拍手!そして、今年。二人の演奏姿はとても中学生には見えない、大きくおおきく見えた。

 今年のオープニングは「本耶馬溪子供神楽」。S49年に東谷小学校の児童を対象に始めた子供神楽も、現在では子どもたちの数も減って、本耶馬溪全域から募集している。指導も昔子供神楽に参加して今も地域に在住している方が引き継いでいるとのことである。今回も子どもたちのかわいらしい演技に見物席から「おひねり」が飛んだ。いろんなイベントに参加しているというが、みなさんにかわいがられる子供神楽だと思う。

 タイトルを「子どもたちの」としたが、このままでは子どもたちが主役になってしまいそうである。  

100316 ちひろのまなざし

     

 13(土)14(日)と二日間にわたって公民館まつりが開催された。日頃取り組んでいるサークル活動の発表の場としての公民館まつりである。13日は作品展が中心で、今日(14日)は太極拳や踊りなどが披露される。

 先ず開会行事があって、その後今年のオープニングは「本耶馬溪子供神楽」であった。これについてはもう少し述べたいので次回に詳しく紹介する。そのあとに記念講演が行われる。今年は作曲家で歌手でもある「ちひろさん」を迎えて行われた。「心の歌~金子みすゞのまなざし~」と題して約1時間半の語りと歌。彼女は郷土の詩人・金子みすゞの詩に曲をつけ、歌うことを通して「みすゞ」の思いを広く世に知らせることをライフワークとしている。この本耶馬溪との縁は6年前の西谷村からで、こちらでコンサートをするのも6回目である。こちらで音響を担当する彼が「今年はちひろさんか~。張り切らんといけんな!」という。それくらいファンが多い。

 やさしい語り口。金子みすゞとその詩にふさわしい声と語り口。しっとりとした、深みのある、いかにも女性らしいきれいな声。やさしい容姿。棟方志功の版画に出てくる女性に似ていると言ったら彼女はどう思うだろう。あの「ふくよかさ」はそうとしか言いようがない。私としては最高の褒め言葉なんだが・・・・。

 2曲目「大漁」。みすゞの人間以外のものに向けるやさしいまなざし。「・・・海の中では何万の 鰮のとむらいするだろう・・・」というかなしく暗い歌のはずなのに、みすゞのやさしいまなざしとまるで海の底から聞こえてくるようなちひろさんのやさしい声が一つになって、おだやかな明るい世界へと昇華されていく。3曲目「星とタンポポ」。「・・・見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ・・・」。見えるものを形づくっていく、しかし、見えないものへのやさしいまなざし。

 ふくよかで、きれいで、そして、やさしい、ゆっくりゆっくり流れていく、「ちひろのまなざし」。

 ちひろさうんどホームページ   www.chihirosound.com

100314 CM(わんぱくでもいい・・・)

適当な写真がありません。マイ・ピクチャを探していたらこの写真が出てきました。
保存名を「哲学するサギ」とつけました。

 

 どこかでも書いたが、テレビのCMが好きだ。生半可なドラマでは太刀打ちできないものさえあるくらいだ。ましてや今流行のバラエティでは比較にもならない。だからといってバラエティ亡国論に組する気もないし、子どもに悪影響を与えるから画面から消し去るべきだとも思わない。こうした話は人類が生まれて以来繰り返されてきたことだし、だれもが立派だという番組だけになったとしたらそれはそれで大変だし、不気味だし、怖くなってくる。

 CMは時代を映し出すというが、そうした意味で印象的なキャッチコピーがけっこうある。その最たるものが60年代の「オー!モウレツ(丸善石油)」ではないか。駆け抜ける車の風で小川ローザのミニスカートのすそがひるがえり、「オー!モウレツ」と一種独特のイントネーションで発声する。当時の“猛烈主義”を茶化していたような響きだった。今ではどうってことないのに、彼女のそのしぐさに目を奪われていたものである。

 次の年(S45)には富士ゼロックスがCMで「モーレツからビューティフル」と言わせている。ここから70年代に入る。時代の大きな変化をとらえたコピーである。

 私の一番好きなコピーは「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい(丸大ハム)」である。掛け値なしの傑作コピーだ。しかし、こういうCMが作られもてはやされたということ自体、「わんぱく」な子どもたちが少なくなり、そういう環境が急速に子どもたちの周りから消え始めていたことを意味していたような気がする。今では外を走り回ってなんていう子どもの姿を見ることがない。「わんぱく」はすでに「死語」と化した。

 似たものに「たまにはけんかに負けて来い」という東雲堂の二0加煎餅のコピーがある。このコマーシャルは32年間も続いたそうだが、どうも九州限定のようである。