090830 夏逝く

 香港の孫からの電話。家内と話している。どうも、何かをねだっているようだ。後で聞くと、「稲妻イレブン・ゴールド」とかいうソフトだった。おーちゃんに代わってというので電話に出ると、私にも「シルバー」をという。早くも始まった学校の話などをしていると、唐突に「おーちゃん、もう、夏もいったね」という。あとで彼の言った「いく」という言葉の意味を考えた。おそらく母親か、あるいはテレビかなんかで言ってた言葉を使ってみたのだろうが、なんとなくおかしいやら、なんとなく引っかかるというか、子どもは時々自分の身に余る言葉を使いたがるものだが。

 今日(29日)は、朝早くから草取り。おそらくこれで今年の草取りも最後にならないか、とこれは希望的観測。。8月も終わりというのに、今日の暑さは半端ではない。暑さというより蒸し暑さが堪える。日陰を探して木の下を這い回る。ところが、何か今までとは違っている。もみじの木の下までやってきた時その理由が分かった。蝉の鳴き声がない!あれだけ自己主張していた蝉がまったく鳴いていない。鳴いていないはずだ。木の下にはあちこちに蝉のなきがらが落ちている。

 その上を何かの影が通り過ぎる。目を上に向けると、二匹の黒アゲハ。我が家の庭では意外と、アゲハよりも黒の方を見る。まるで我が庭とでもいうように、ゆうゆうと飛んでいる。これだけゆったりと飛べるということは、敵がいないということ。何かで読んだが、黒アゲハは体内に毒を持っていて、敵であるはずの鳥たちもそれを知っていて襲ってこないとか。今日のテーマの「夏が逝く」には黒アゲハの方が似合うと思うがどうだろう。

 飛んでいくその先には、メランポジュームが今年も咲き誇っている。今年のその花の下には、昨年の8月18日に死んだ愛犬「シロ」が眠っている。シロについてはまた書こうと思っている。

090827 岩藤千晴(2) 縄文人

ツリガネニンジン キヌガサソウ

(山でうまいはオケラにトトキ 嫁にやるのもおしごたる)
「トトキ」とはツリガネニンジンの別名。

 前回の投稿後、何もクレームがつかなかった。ない以上勝手ながら、積極的ではないが消極的な了解とみなして、今回も実名で投稿する。

 1年間と期限を限って安曇野に行った彼は、その後帰ってきたという連絡はないままだった。それがいつだったか、「こちらに本格的に移住することにした。家も建てた」と電話してきた。あっけにとられてしまった。思わず「中津の家はどうするの?」なんて、私が心配してどうすんの、という訳の分からない返事をしてしまった。

 ほかの事は忘れてしまったが、その時「あんたは縄文人だ」と言ったことだけは覚えている。だって、そうでしょう。私の好きな番組に「人生の楽園」というのがある。土曜日の夕方6時から30分番組で放映されている。「人生には楽園が必要だ」というナレーションから始まる。今の西田敏行もいいが、やはり「いかりや長介」のナレーションが抜群だった。新たな第二の人生を見つけ、夢に向かって努力し、そして現在がある・・・・そんな自分だけの「人生の楽園」を見つけた人々の生活を伝える、というのだが、番組になるということはそれだけ人気があるということだが、それだけではなく、そういう人生を送れる人がめったにいないからこそ番組になるのだと思っている。

 ふつう誰もが、家があり、付き合いがあり、お金の問題もあり、健康の問題があり・・・・さまざまな引きつり引張りがあり・・・・、それらをクリアして、なにもかも投げ出していける楽園を見つけたとしても、最後にそれらを実際に投げ出す「決断」が必要。それをいとも簡単(?)に「・・・・家を建てた」といってくるのだから。

 それのできるあなたはやはり、土地に執着しない狩猟採集生活を送る縄文人であり、山を愛し、下界から超然として生活する山岳民族だ。といったら縄文人が腹を立てそうだ。私たちが習った縄文人は髪やひげは伸び放題で、動物の毛皮を身にまとい、石器で作った槍を小脇に抱え、食糧を求めて野山を駆け巡るイメージだが、今では、縄文人も定住し、集落を作り、田畑を管理し、時には現代人もびっくりする高度な、たとえば、楼閣を造っていたということが発見されている。

 その点、私は弥生人だ。農耕民だ。土地にしがみついて、その土地から離れるなんて飛躍はこれぽっちも思い浮かばない。思い浮かばない以上、楽園はあなたからの写真に変えようと思う。とうことは、あなたは楽園に値する写真を、いつも私に送ってくる義務が生じたということです、よ。

090824 気力


 我が家にはじめて咲いた「吾亦紅」

 このごろ「気力」ということをよく考える。

 それを思い始めたきっかけは、夜、熟睡できなくなったこと。休みになると、それまでの睡眠不足を取り戻すように朝遅く、というより昼近くまで寝ていた。それがいつの間にか朝まで覚えていないなんてどこへ行ったのやら。途中で起きるようになりそれが一度や二度ではなく、また、一度起きるとそのままいろいろなことを妄想し始め、そのまま朝までなんていうことがおきてしまった。寝るのも体力がいるということがよく分かった。

 それから気づいたら、何を始めるにも「よいしょ!」「どっこいしょ!」という掛け声がないと取り掛かれなくなっていた。母親がいつも声をかけていたのを笑っていたのだが、見事に私もそうなってしまった。不謹慎ながらその私の掛け声を母に聞かれなくてよかったと思う。どれだけバカにされたことか!
 
 それから、「鬼平」で書いたが、長編小説が読めなくなった。どうかするとページを閉じることができなくて、気がついたら外は白々と夜が明けていた、なんていうこともけっこうあったものだ。それがまず12時を過ぎると自動的にまぶたが重くなり(家内はお子様の時間なんてバカにする)、どんなに面白いものも読み続けることができない。それでついつい短編やドキュメント関係のものに手が出てしまう。

 映画もそう。今ではよっぽど気に入ったもの(例えば、ボーン・スレマシーなど)以外は、シリーズ物(ボーンズやCSIなど)に嵌まっている。シリーズ物には、長編の大味なものより短い時間で中身の濃いものが多い。

 アンチエイジングという言葉をよく聞く。たしかに逆らう努力も大切だが、受け入れてそれに合った生活を考えるのも楽しいかも知れない。

090821 帰ってうれしい?・・・・・・


 春に約束したグローブ。休みのたびに公園まで出かけ、暑い中で野球をする。

 今夜は、いつも歩く距離がどうしてもきつくて、とうとう半分ほどの距離で引き返してしまった。いつもは文句を言う連れ合いも今回だけは何も言わずに引き返した。それだけ疲れていたということか。二人の孫が昨日、今日と、一度に帰っていった。その反動からか、二人とも疲れがどっと出てしまったようだ

 香港の孫は、直行便がなくなってからは朝(?)の3時に起きて、4時前には家を出て福岡空港まで送っていくようになった。4月の時は、空港に着いたのが6時前で、空港の玄関が閉まっていて入れずに、外で待っていた。今回は、気持ち遅く、4時10分に家を出た。孫と連れ合いは後部座席で寝ており、娘と取り留めのない話をしながら運転をする。

 幼い頃はあっさりと(こちらにはそう見えていたのだが)搭乗口のゲートを通り抜けていた彼だったが、この頃は別れるのが辛いのか、いつまでも振り返りふりかえり、手を振るようになった。今までは私もできるだけあっさりとしてきたはずなのに、今回はなぜかそれも上手くいかない。とうとう彼を呼び寄せてハグ(「抱いて」とは言えないのでつい格好をつけてしまった)してしまった。彼の方もびっくりしていたようだが、そんな私に一番驚いているのは私の方だった。

 見送った後、「阿修羅展」に行くはずが、あまりに早い時間なのでそのまま家に帰ってしまった。疲れが出たのか、この頃全く記憶のない昼寝をしてしまった。2階の書庫の隣にある畳の部屋で、気持ちのよい風に誘われて、吸い込まれるように・・・

 今日は下の孫。夜中に何度も夜泣きをして、その声でとうとう眠れなくなってしまった。昼寝のせいもあったかな。しかし、こちらは北九州空港。ゆっくりと出かけられので助かった。この子は現在1歳と5ヶ月。なにをしても可愛い盛り。二人とも6日に帰ってきて2週間。それなりにお相手をしてきたので疲れが溜まっていた。普段は夫婦二人の静かな(?)生活なのでそのギャップに戸惑う。「来てうれしい」が、たしかに「帰って」もうれしいはずなのに、なぜかさみしくもある。今晩は二人ともほとんど口を利かずに歩いている。疲れだけではなさそうだ。

090818 ビバ!ブログ


〔 安曇野通信 7 〕
 100m前方の私の車の前を黒い子犬がうろうろしている。丁度バトラー(12月に死んだ愛犬)の子犬の頃の感じで可愛らしい。ところが、よく見るとなんと小熊だ。

 今月の3日の新聞の一面に「万引きした高齢者/「孤独で」24%」とあった。中を読むと「万引きした高齢者の40%は独り暮らしで、53%は「友人がいない」と回答。孤立した生活実態が背景にあることが浮き彫りになった」とある。前から、そういう話は少しずつ聞いてはいた。たしかテレビでも特集があったはず。

 65まであと1年とちょっと。「孤独で」とか「生きがいがない」なんて言わなくていいように何かを見つけなくては、とよく考える。友達の中には、念願の安曇野に移り住んで、山登りにスキー、渓流釣りetcと充実した毎日を送っている人もいる。動けるのは70までと思い定めて、毎週のように臼杵や米水津まで獲物を求めて通いつめている漁師のような友もいる。自分も何かを・・・・と思い続けていた時、この「ブログ」に出会うことが出来た。

 そのおかげで毎日が充実している。今までただ漫然と見過ごしていたようなことも、鵜の目鷹の目でこれはブログの材料になるのではないかと考える。題材が見つかったら、これをどう表現するか。どう料理したら美味しくなるかを考える。それも独り善がりではなく、どう書いたら見てくれる人が喜んでくれるかを考える。文章だけでは自分でもうんざりする。それを避けるためにどんな写真を載せようかと考える。それもこれまでは単にAUTOで撮っていたのに、露出も勉強した方がいいのではなどといっぱしのことを考える。こんなに「考える」ことに囲まれた生活はいつ以来だろう。これではボケる暇もないかもしれない。

 それに何より、これを通していろんな人とつながりを持てるようになったということ。そして、再会できた人がいるということ。

090816 鬼平犯科帳

〔 キバナヤマオダマキ 〕 〔 ビーナスの丘 〕

 夏休みに入ると、
昔は夏休みは休みでした。というと語弊があるが、今でこそ夏休みも勤務時間のうちなどといわれているが、勤めている私たちはあまりそういう感覚は持っていなかった。本来感覚の問題ではないのであるが、目の前に子どもたちがいないものだから、つい休みのように思ってしまっていたのである。これは私たちだけではなく、ずっとずっと昔からそうで、当たり前のような感覚でした。それで、例えば部活の時間に合わせて学校に出かけて(出勤という感覚はなかった)ていたりした。優雅というかのんびりというか、個人的には、古き良き時代だったと思う。

 決まって読んでいた本がある。まるで約束事のように休みになればこの本を読むんだ・・・・と。それは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」と「剣客商売」である。「鬼平」はそれまでの捕り物帳とは全く違った、チームワークを生かした警察小説といっていいものである。せりふを上手く生かしたスピード感溢れる展開も目新しかったし、タイトルの「犯科帳」を筆頭に「急ぎ働き」や「盗みの三か条」などの言葉も斬新だった。なによりも作品の基調に流れる「善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だ」という池波の人生観がふと落ちて心地よかった。

 「鬼平」-25巻180話。「剣客商売」-番外編「黒白」と「ないしょないしょ」を入れて18冊112話。これをひと夏で読み上げ、それを何年繰り返しただろう。どうかするとその上に「仕掛人・藤枝梅安」シリーズが入った年もあった。同じ頃、司馬遼太郎の本も集めた。好きな作家だったが、そう何度も読み返そうという気にはなれない。それが池波正太郎の本となるとどうしてなのだろう。いろいろ理由はあるのだろうけど、この理由で、と意識したことはなかった。まあ、どちらにしても同じ本を繰り返し読んだので、本代が安くてよかったのはたしかだ

 その習慣も教頭になったころからいつの間にかなくなってしまった。その上に60歳を超えると、ずっと読み続けるということが困難になってきた。視力も落ちたし、なにより気力がなくなった。しかし、時間だけはたっぷりとある。また、2階の畳の小部屋で、クーラーもなく、吹き抜けていく風の中で、それも寝転んで「鬼平」を読んでみよう。

090814 岩藤千晴(1)


〔  常念岳  〕

 私の数少ない親しく付き合っている友だちの中で、「安曇野」に移り住んだ人がいる。名前を「岩藤千晴」という。タイトルをどうしようかと迷ったが、この名前しか思いつかなかった。実名を出すことにもほんの少しためらいがあったけど、なぜか実名でなければ意味がないと勝手に思ってしまい、許可もなくつけてしまった。

 彼は、昔から退職したら1年間は長野に家を借りて、とにかく山に登り続けてやると言い続けてきた。退職してそのまま「耶馬溪風物館」に勤め始めたが、会うたびに「嫌だ、いやだ。ここは俺のいる場所ではない。長野に行きたい」と言っていた。

 その彼に「長野に行くことにした」と打ち明けられたのは歓送迎会の席だった。「行ったらああしたい、こうしたい」と、まるで子どもが夢を語るみたいに張り切っていたのを思い出す。出発の前、我が家にやってきて、これから出発するが、中津の家に咲いていた八重のドクダミを持ってきたのでどこかに植えておいてくれ、とぶっきらぼうに置いていった。まるで形見のようで、ちょっとしんみりとなったものだ。そのドクダミはそれ以来我が家の土になじんだのか(ドクダミは強くて場所を選ばないよという声もあるが)、どんどん広がって時期になると可憐な白い花を咲かせている。我が家を訪れる人に人気で、いろんな御うちに嫁いでいる。またその時期になったら写真で紹介しよう。

 住んだのは長野でも「安曇野」というところ。名前がいい。古代の海の民、「安曇氏」に関係する地名だと思うが、言葉の響きだけでロマンを感じてしまう。いかにもいつまでもロマンを求める、いかにも子どものように遊び心いっぱいの彼が選びそうなところだと勝手に思ってしまう。おそらく、そんなことは考えたこともない、たまたまだよ、と少し照れながら言いそうな彼の顔が浮かぶ。

 それ以来、たくさんの花や山の写真を送ってくれている。パソコンの中にはもう何百枚とたまっているはず。その彼が先ず最初に電話で話したのは、その花や山のことではなく、「ここは、湿気が少ないので過しやすい。最もうれしいのは『蚊』がいないことだ」ということだった。中津の粘りつく夏の蒸し暑さと夕方になると大群となって突進してくる蚊に悩まされてきた彼にとっては、なによりの幸せだと思う。と同時に、いまだに蒸し暑さで寝苦しい夜を過し、夕方の花の水遣りの時作業着の上からも蚊に刺されて閉口しているこちらとしたら、うらやましいを通り越して腹立たしさを覚えてしまう。その思いを知ってか知らずか、先日の電話では、「食事のあと、家内と二人でテラスに出て、ひんやりとした空気の中で、目の前の常念岳に沈む夕陽を眺めながら、紅茶を飲んでいる」と言ってきた。もう腹立たしさを通り越して「あ~あ」である。                                                        《 続く 》

090813 さくら草はいらんかえ!

6月23日 種まき

3週間後

取り出した苗

1回目の移植

昨年、公民館の生きがい教室(文化の森大学)の講座の一つとして、9月に園芸講座「さくら草を植えよう」を実施した。1回だけの講座なので、講師の井上南部公民館長が育てた苗を鉢に植え替えるだけでした。それが好評で、今年は講座ではなく、独立した教室として年3回の「さくら草クラブ」を立ち上げた。4月の呼びかけたところ15名の希望がありました。
第1回目は6月23日。この日は、まずさくら草についての講義があり、そのあと先生が用意してくれたさくら草の種を鉢に蒔いた。一人ひとりに赤と白の種を用意してくれていたのだが、始めて見るものだからそのあまりの小ささに、あまりの軽さにみんなびっくりしていました。うっかりすると鼻息で飛んでいってしまいそう。それでもなんとか均等に蒔くことができました。
第2回目は7月28日。今回は、鉢の中で育った小さな苗を育苗箱に移し変える作業。先生から繰り返しくりかえし注意されたのは、とにかく根を痛めないこと。生まれたばかりの苗だからその根は非常に繊細なので、土から取り出す時には優しくやさしく扱うこと。このことでした。何とか全員植え替えることができたけど、たしかに細いほそい、か細い根でした。それでも苗が2cmなのに、その下の根の部分が8cmも伸びているのもありました。生命力のたくましさを感じました。
第3回目は9月にあります。育った苗をビニールポットにもう一度植え替えます。育苗箱の苗はみなさん順調に育っているようです。この暑さですから、水を切らさないように注意しています。一応赤と白に分けていますが、実際には入り混じっているそうです。ある程度成長すると、赤は茎の部分に赤みが出てくるので判別できるということですので楽しみです。
それはそうと、「苗はいりませんか?」。このままいけば200本くらいの苗ができそうです。公民館と家と、予約の人をいれてもずいぶん余ります。プランターに3本が目安です。連絡してくれたらポットに植え替えて、ある程度成長したらお譲りします。