090928 原尻の滝と池山水源

 七ツ森を出て、もうひとつの目的地、「原尻の滝」へと向かう。大分に住んでいて、近くの緒方中学校の研究会にも来たことがあるのに、教頭会の県大会で竹田に来たこともあるのに、何年か前、連れ合いと二人で「用作公園」のもみじを見に来たこともあったのに、まだ、原尻の滝には行ったことがありません。なんで~と呆れられたこともあります。汚名挽回と今回は絶対に行こうと決めていました。

 ここも人出が多く、さすがにシルバーウイークと感心。ここはあまり写真を撮る人はいなく、親子連れ、孫連れが多かった。この頃の日照りで、期待したほどの水量もなく、うたい文句の「東洋のナイアガラ」が、それでなくても恥ずかしくなるくらいだった。ここでは、カメラの扱いを変えてみた。これまではほとんどオートで撮っていたのだが、連れ合いの写真集のための写真を撮ってくれた方が、一眼レフを操っていたのを見かけ、同じ一眼ならばまねをしてみようと大それた考えを起こし、いろいろと試してみた。特に、水の流れ、落下の姿をさまざまに表現してみようとシャッターモードで撮ってみた。結果は・・・・・。これから勉強します。

 帰りも442号線を通る。しかし、今度は久住高原を通って。途中で「池山水源」の看板を見つける。ここには懐かしい思い出がある。慌てて引き返し、昔通った道なき道(?)をたどり、やっと到着。昔と違って、今は水を求める人でごった返している。車から一人が何本、どうかすると何十本ものペットボトルを運び込んでいる人もいる。順番を待つ人がいっぱいで、いざこざが起きなければと心配になる。実際、あからさまにイライラを見せる人もいる。なんで日本人はこうなるのかな。 それにもかかわらず湧水の水は相変わらず美しい。写真に撮ると、水底の水草が写るだけで、まるで水がないように見える。

 帰りは玖珠を通ってと思ったら「夢大吊り橋」のことを忘れていて、その渋滞に巻き込まれてしまった。連休はおとなしく家にいることですね。

090925 七ツ森古墳

 ひとりで7時20分に家を出る。連れ合いは、自分の布花の30周年を記念して展示会をすることにしている。そのための作品づくりでてんてこ舞い。そろそろひとりで遊ぶことも覚えないと、という思いから、新聞に掲載された彼岸花を見に、竹田の七ツ森古墳に出かけることにしたのである。

 ナビをセットすると、高速を使うほうが使わない方よりも1時間も早く到着と出る。自分で作成したCDを聞きながら、のんびりと運転しようという気持ちもあったが、さすがに1時間の違いは大きい。四日市から高速に乗り大分の光吉インターまで。あとは442号線を使って竹田へ。途中まではこんな田舎に、こんな立派な道路が、のはずが、山にさしかかると途端に道も狭く、険しくなっていく。そういえば、このあたりに「香りの森博物館」というのがあったはず。できてすぐに友だちと来たが、行けども行けども山の中で、よくもこんな人里はなれたところに造ったものだと呆れたものだ。平松県政の最大の無駄遣い。最大の汚点といっていいものである。

 着いたのは9時30分。七ツ森古墳自体は想像していたよりも小ぢんまりとしている。駐車場が狭く、停めるところを探すのに手間取る。昨日は彼岸花まつりがあったとかで、今日よりずいぶん人出も多かったそうだ。それでも観光客と写真愛好家でいっぱいで、人の姿が写らないように撮るのが大変だった。20万本と新聞には載っていたが、ちょっとオーバーな気がした。私の住んでいるところは今が満開だが、ここはもう盛りを過ぎていた。ちょうどぴったりという時に巡り合うのはなかなか難しい。しかし、古墳と彼岸花。いい取り合わせだと思う。

 古墳といえば、宇佐の風土記の丘には古墳群がある。なかでも、福勝寺古墳を取り囲む木立は、薄暗くて、静かで、ゆっくりと一周すると気持ちが落ち着く。反対に、鶴見古墳は周りが開けてあっけらかんとしている。たっくん(孫)と来た時、飽きもせずに登っては駆け下り、登っては駆け下りていたのが、つい昨日のようである。

090922 迦楼羅

 阿修羅の人混みからはずれると、他の場所は意外とあっさりしたものである。八部衆と十大弟子の像はそれぞれ4対ずつ安置されている。残念ながら十大弟子の方は素通りする。お目当ては何といっても八部衆である。インドで古くから信じられてきた異教の(バラモン教か?)八つの神を集めて、仏教を保護し、仏に捧げ物をする役目を与えて八部衆とする。仏教に取り入れられてからも、異教の神の姿のままに表現される。

 その中でも「迦楼羅(かるら)」。まず目につくのはなんといっても「くちばし」であろう。そして頭にはとさか。これは明らかに人間ではない。インド神話上の巨鳥、ガルダという。たしかガルーダ航空という航空会社がインドネシアにあったはず。何年か前福岡空港で事故を起こし、それでこの名前を記憶している。龍を常食とする。害を与える一切の悪を食いつくし、人々に利益をもたらすところから、家内安全等の修法の際にこれをまつる、という説明を読んですぐに浮かんできたのが「孔雀」である。

 孔雀は羽を広げた時のその鮮やかな印象が強いが、よく見るとその顔は肉がたるみ、首の辺りは毒々しい青色に光り、その首をくねくねと動かしている。向かい合っていると、鳥類でも哺乳類でもなく、どちらかというと爬虫類のようでもあり、分類不可能な生きものを見るようで気味が悪い。鳴き声も不気味で一度聞くと忘れられるものではない。

 そして、悪食である。その巨体を維持するために、毒蛇も毒蜘蛛も容赦なく食ってしまい、解毒できるらしく死ぬことはない。このアジア大陸、特にインドは瘴癘(しょうれい)の地である。その過酷な自然の中で生きてきた先住民(ドラビダ族)の人たちにとって、その光景を目の当たりにした時の驚きは、いつしかあこがれへと変わっていったはずである。その、解毒、毒にあたらないということを発展(抽象化)させて、孔雀そのものを形而上の世界にまで高め、ついには、諸仏の仲間までに昇華させた。それが「孔雀明王」である。

 ここはとにかく、迦楼羅。阿修羅展のCMを見るたびに、いつしか阿修羅だけでなく、いや阿修羅以上に迦楼羅への憧れが強くなっていった。その迦楼羅がいま目の前にある。だれに邪魔されることなく見続けることができる。一体だけ横を向いて、くちばしとそのギョロメの顔が、いつしか見慣れた、なつかしい顔へと変わっていった。

090918 阿修羅

 昨日、文化の森大学の現地研修で、阿修羅展に出かける。9月に入って、入る情報が「3時間待ち」や「4時間待ち」といったとんでもない話ばかりなので、急遽役員会を開き、9時出発を6時半にした。あまりの早さに取りやめた人も出たが、開場までの1時間半を待つだけであとはスムースにことは運んだ。だれもが喜んでくれたので、いっぺんに肩の荷が下りた。

 阿修羅の写真をと思ったが、もちろん撮影することは許されていない。インターネットからダウンロードしようかと考えたが、今回は私の好きな文庫本を掲載してみた。

 薄暗い展示場に、そして、抑えた照明の中に、天平の美少年と称される国宝・阿修羅像がたたずんでいる。三面六臂の、少年のように細く、しなやかな肢体。三つの顔は、それぞれに微妙に違う悩ましい表情で、見る者をひきつける。

 と、表現すれば、素晴らしい環境の中で鑑賞を楽しんでいるように思われるかもしれない。ところが、現実は、阿修羅の前は幾重にも取り囲む人の波で、とてもじゃないが、近づくこともできないし、たとえその波の中に入ることができても身動きできない。そこはよくしたもので、若い男性の係が二人ついていて、彼らの掛け声でその人波が左にわずかな歩幅で動いていく。16まで数えるとちょうど45度動くから不思議である。動かされるこちらは、苦笑しつつも内心では笑いが生まれてくる。表情は分からないが、声の調子からすると、彼らも自分の掛け声で人波が動いていくことを楽しんでいるような気配である。

 「天平の美少年」といわれる阿修羅。闘いの神と呼ばれ、仏教に帰依するまでは、仏教の守護神「帝釈天」と何億年にわたって闘いを繰り返してきたそうだ。ところが、他の八部衆と違って、、彼だけが鎧をつけていないし、限りなく優しい(哀しい?)表情をしている。それをある人は、その彫刻を彫った(この時点でその人はすでに間違っているのだが)無名の仏師の信仰心が、これだけの穏やかな表情を作り出したのだと言った。私も今日まではそう思っていた。彼(仏師)は、たまらなく阿修羅が好きだったのだ、と。

 が、今はそうは思わない。今は、1300年という時間が作り上げたのだと確信している。それは・・・・。4階の常設展示場には、造られた当時の姿を復元した阿修羅が展示されていた。なんともいえない朱色でけばけばしく、なによりも驚いたのはあの少年の表情がどこにもないのである。代わってあるのは、口の上にうすく描かれた口ひげ。創建当時興福寺にあったのは、今私たちを魅了する少し哀しみを帯びた少年の顔ではなかったのである。1300年という時間の流れが、少しずつ少しずつ、けばけばしさやたくましさを削り取っていって、本来の阿修羅の姿が生まれてきたのである

 2階の本棚の、歳時記の陰に隠れていた1冊の文庫本を見つけ出した。光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」。この本を読み始めてちょうど30年になる。読み終わるたびにいつもシーンとした思い(いい表現が見つからない)に囚われる。この本の中に出てくる阿修羅は少女として描かれている。この本を原作とした萩尾望都のコミックでも少女として描かれている。そして、光瀬龍の言葉のイメージに負けない、凛と美しい阿修羅を生み出した彼女に拍手を!

090915 彼岸花

彼岸花の写真の中で一番気に入っているもの

秋空と彼岸花

長安寺の白い彼岸花

彼岸花と戯れる2匹の蝶

若宮八幡の彼岸花

 月に一度、町内の地区公民館を巡回している。まず屋形に行き、山の中を通って東谷へ。東谷から、また、山道を通って西谷へ。とにかく山から山へである。その山道で見かけた彼岸花が、今はもう里まで降りてきていて、田圃の畦に赤く群れています。此花は昨日まで全く見えていなかったのに、唐突に地面から燃え上がるように立ち上がります。

 白い彼岸花が咲いているということを聞き、何年か前、国東の長安寺までわざわざ出かけました。たしかに沢山の白い彼岸花が咲いてはいたが、なぜかすっきりしません。やはり彼岸花は赤でないと。それぞれが持つ固有(ふさわしい)の色があるようです。冴えた青い空と緑の田圃の広がりの中では、赤が目立ちます。周りの色ときっぱりと色を分けて、華麗に天に伸びていきます。

 学校帰りの小学生が数人、棒切れでこの花をたたいています。赤い花が当たり一面に飛び散って、血の色のように見える。時代は違っても子どもは子ども。同じことをやってるな、と。曼珠沙華あれば必ず鞭打たれ(虚子)

 幼い頃、私たちは墓地を格好の遊び場にしていました。今は拓けてしまって、まわりは駐車場になっていて、あっけらかんとしています。その頃は田圃の中にぽつんと置き忘れられた状態で、子どもたちにとってはちょっとした別世界でした。ちょっぴり怖かったが、男の子たちは不思議とそこに集まってきた。そして、思い出すのは「彼岸花」とその赤い色。

090912 岩藤千晴(3)粋な師匠

エゾナデシコ マツムシソウ

13・14・15日、上京。人混みと蒸し暑さにうんざりして帰ってきました。安曇野の風の爽やかさを改めて実感。< 中略 > ヤナギランの草紅葉、ハクサンフウロウ、ハナイカリ等々の花も咲いて、気温16℃の高原を満喫。
これは、昨年のメール。

 

 はじめて岩藤氏と出会ったのは、私が36の時だったと思う。なぜ覚えているかというと、その時、私の勤務していた下毛郡(もうこの地名もなくなった)の図書館部会が県大会の当番に当たっていて、ちょうどいい年齢だからと、半ば強制的に事務局をさせられた年だったからである。彼もいたのだが、大阪から帰ってきたばかりであまり知られていなかったのと、反対に私は実権を握っていたおばちゃん先生たちとは、同じ学校に勤務したりして知られていたので、「健三さん、あんたがやり!」の一言で決められてしまった。あとで、彼が私よりひとつ年上ということが分かって悔しがったものだ。

 その後は、中学校と小学校と勤務が違っていたので、接点はなかったが、40の年から4年間、組合の執行委員をやった時、彼と一緒になり、ふたりで教文を担当したのをきっかけに仲良くなった。その当時は、二人ともタバコは吸うが、飲みごとはとんと苦手で、飲み会にいてもいつも二人で何とか逃げ出すことはできないかと策を練っていた方だし、とにかく群れるということを嫌っていた。こんな二人がなぜ気があったのか。家内に言わせると、「あんたは変わった人と仲良くなる特技がある」そうだ。

 教文担当の執行委員として教組教研の世話をしていた時のこと、彼との会話の中で二つのことが、未だに忘れられずに残っている。

 ひとつは、「落葉松」の話。九州ではほとんど見ることができないが、むかしアルプスで見た落葉松の美しさは忘れることができない。新芽の時(と言ったと思う)、落葉松林に入り、下から見上げた時の、あのきらきら輝く葉の美しさは例えようもない。あの姿をもう一度見るのがおれの夢なんだ、と。前にも書いたが、そういう話をする時の彼の表情は、分別のあるおっさんの顔ではなく、子どもが自分の宝物について語るような表情をしていた。

 もうひとつは、「杜鵑」。鳥は知っていたのですが、その時までそんな植物があることも知らなかった。名前はもちろんのこと。湯布院の町まで二次会のお酒を買出しに行った時のことだった。道路沿いの家の軒下にあったその草を見て、「これは杜鵑。花の咲く時期に沢山の斑点が出てくるが、その斑点が粋で、好きな花のひとつだ」と。覚えていますか?斑点が「粋」だと言いました。その言葉が妙に印象に残って、それ以来、庭のあちこちに植えてみました。

 私にとって彼は、植物についての師匠になりました。

090908 白露

 白露にふさわしい写真がないので、「八重のどくだみ」で代用します。ちょうど、ある方にどくだみの絵を送るついでがありました。このどくだみはほんのりと赤い色が浮き出てきます。貝殻に入った紅を小指の先にのせて、花びらに映したようだといったら、笑われました。

 9月8日、暦では「白露」。歳時記をひらくと、「二十四気の一、陰暦八月の節で・・・・・陰気ようやく重なり、露凝って白き意である」とある。中国の秦の時代に作られた24節気というものがある。1年を24の季節に分け、およそ15日間の節気ごとに2字の名前をつけたもので、日本にも輸入され、今日でも使われている。立春、夏至、大寒など、今日でも親しまれている。

 盆トンボが群れをなして飛び回っていたのがつい先ごろ。いつの間にかいなくなったと思うと、季節はすでに仲秋に入っている。そういえば、夜、畦道を歩くと、足元が夜露でびっしょりになっている。「白露」。それにしてもなんという美しい言葉だろう。「蜘蛛の井の穂草をつづる白露かな」。

 秋を色で表すと、何色がふさわしいか。人それぞれに自分なりの色を持っているでしょうが、私はやはり「白」です。純粋、清らかさ、爽やかさ、無垢、はかなさ、涼しさ・・・・いろんな言葉が浮かんできます。それらをトータルした季節はやはり秋。そういえば、言葉の魔王とまで言われたのは北原白秋。彼の号「白秋」はどうして生まれたのか。

 季節の移り変わりほど面白いものはない。夏の暑苦しい濁った空気を、秋の爽やかな空気が少しずつ押しのけ、やがて澄み切った空気が大地を満たすようになる。「夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏よりすでに秋はかよひ」といったのはたしか兼好法師。季節は「目にはさやかに見えねども」確実に動いています。夜、歩きに出ると、まだまだ明るかったはずが、もうすっかり暗くなってしまっている。つるべ落としの秋の夕暮れがすぐにやってきます。

090905 くろいちょう

公民館で仲良しになった斉藤テルさんにいただいた。木の下に吊るしておけば、あとは放っておいても大丈夫と聞いて、さっそく銅線を買ってきて吊るしてみた。写真を撮りにいったら、いつの間にか白い可愛い花が咲いていた。

黒い蝶といえば、孫も庭の中で見ている。「おーちゃん、くろい大きなちょうが飛んでいるよ」。そして、ただじっと見ているだけだった。たしかに大きな蝶がゆったりと飛んでいる姿は、子どもだけでなく、かつては子どもであった大人をも魅了する力がある。
ところが、かつての子どもたちは、ただ見ているだけでは我慢できず、なんとかそれを捕らえようとする。そっと近づき、うまく捕らえ、蝶の震える感触を感じた時の喜びは、うまくは言えないけれど、ヘッセの「少年の日の思い出」に出てくる、あの少年の思いと同じものだった。
今はどうか。蝶を捕ってはかわいそう。死んでしまうよ、である。たしかに、捕らえられた蝶のほとんどは(いや、全部か!)死んでしまう。そして、すぐに忘れられてしまう。しかし、美しいものを見た時、それに触れたくなる感情を抑えてしまうことがいいことなのか。触れてみて、極端に言えば、殺してみて、はじめて美しさを実感できると思う。眺めるだけでは、アゲハチョウという名前を知ることもなく、ただ「くろいちょう」が飛んでいるだけになってしまう。
学生時代(遥か、はるか遠くになってしまったなあ)、わが町にもたくさんの映画館があった。その中に洋画だけを上映する映画館があった。あるアーケードの奥にあった、小さな映画館だった。入場料は20円位だったような気がするが、だれか覚えていますか?そこでいったいどれだけの映画を見たことか。「理由なき反抗」のジェームス・ディーン。「暴力教室」には、コンバットのヴィック・モローが新人で出ていた。。「夜の大捜査線」のシドニー・ポアティエ・・・・
映画が文化であった時代である。その時見た映画の中で、「西部戦線異状なし」のラストシーンが心にしみた。若い兵士が塹壕から身を乗り出して、小さな白い蝶に手を伸ばす。そこに一発の銃声。彼の捕まえようとした白い蝶は、いったいなんだったんだろう。