090728友情3(赤ニシ)

《 残念ながら中身を食べてしまってから写真を思いつく 》

帰宅して車を車庫に入れようとした時、近所の奥さんに呼び止められる。「奥さんに巨峰をいただきました。美味しかった。これはうちの旦那が蒲江に行って獲ってきた赤ニシ。おすそ分け」。

すぐに海のニシが頭に浮かぶ。「いい酒の肴になる。ありがとう」と受け取ったら、ずっしり。見事な赤ニシが4個。ニシはニシでも私の思ったのはタニシほどの大きさ。これについてはまた別な機会に。こういうことになると、家内は全くの音痴。サザエをもらったと喜ぶ。たしかによく似ている。海に全く縁のない、寄り付こうとしない彼女には当然の話か。

熱湯に塩を少々。「ギューと鳴いた。生きてるよ!」とびっくり。本当はびっくりしていることに「びっくり」なんだが。煮立つと目打ちで中身を取り出す。この作業だけ「おとうさん、お願い」とくる。簡単なはずなのに、甘えているのかほんとに苦手なのか。冷たい水で手洗い。ぬめりを取るのか身を引き締めるのか、それとも両方か。薄くスライスしてお皿に。手造りの味噌にあえて食べる。

となると、ビールは欠かせない。10日ほど前に家内が夏バテから急性胃腸炎を起こす。それ以来飲むのを控えているし、私も飲んで食事をした後のウォーキングがこの頃少々きつくなってきたので、ビールを控えようと思っていたのだが、こんな素敵な、美味しい肴を前にしたら飲まないなんて、そんな不謹慎(?)な真似はできない。

こんな美味しいもののやり取りから付き合いは深まり、友情も生まれる。

090725クーラー

〔 安曇野通信1 ワタスゲ 〕2年間ですごい数の写真を送ってもらったが、その中での一番のお気に入り。風の姿が見える。これから時々(?)安曇野の写真を掲載する。

今年になって、調子の良くなかった洋間のクーラーがとうとう動かなくなってしまった。耶馬溪の職員住宅に住んでいた時からのものだから、おそらく30年は経っているはず。今でこそどの部屋にもクーラーはあるが、耶馬溪でも、今の家に移ってきてからも最初はこのクーラーしかなかった。ほんとに暑くてどうしようもなくなると、家族4人がみんなこのクーラーの下に集まって過ごしていた。その頃は家族関係が濃密だった気がする。

寝る時には私たちの部屋も子ども部屋も、窓を開け放しているとどうかすると寒いくらいだった。こんなにテレビが「真夏日」だということもなかったような気がする。ましてや「猛暑日」だなんて。それに家の周りの景色の大きな変化も影響している。移ってきた当初は昔ながらの通りにしか集落はなかったのに、今や周りはアパートだらけ。家の南には水路が通り、その先はずっと向こうのお墓まで水田でした。それが、大きな道路ができて、5軒ほどの家が建ちました。と思ったら道路沿いにはアパートが建ち並び、とうとう庭のすぐ前にまで建ってしまった。

北側ははるか向こうに海の堤防が見えていた。そしてずっと水田が続いていた。それが今や虫食い状態に住宅やアパートが建ち始め、ずいぶん水田も狭まった。今はルートを変えたが、犬が生きていた時はその水田の中の道を散歩していた。何の不安もなかった。田植えが終わり、田んぼに水がいっぱい張られると、うるさいくらいのカエルの鳴き声を聞きながら、水田の上を渡ってくる風がひんやりとした中を、昼間の暑さはなんだったんだといいながら二人と1匹で歩いていた。

それがアパートが建ち、車が多くなり、ゆっくり歩くこともできなくなってしまった。そのアパートもこの不況で、場所によっては空き部屋だらけのところもある。夜は昔みたいに開けっ放しで寝るなんていうのはできなくなってしまった。

090723友情2(サルビア)

《 これはトーチライトという名前がついていた 》

この頃、サルビアに凝っているので、起きるとそのまま庭に出てしまう。これまではパンジーとビオラを種から育てていた。最後の年に一緒になった教頭さんに種から育てることを教えてもらい、ずっと挑戦している。

2年前、九州大会が別府であった時、私の花の師匠である友だちと会場の前にある公園にたくさん咲いていたサルビアの花を、紀要の入った袋いっぱいに取った。一ヶ月もすると枯れた花柄からすごい数の種が残った。それを次の年の5月に種から育て、秋まで楽しむことができた。残った苗はいろんな人に届け、喜んでもらえた。こういうところから友情は芽生える。

もちろん出てきた花は赤だけだったが、今年はいろんな種類に挑戦してみた。ほんとは赤だけでよかったのだが、花の師匠が紫を育てたというのを聞いて俄然やる気が出てきた。インターネットで「トーチライト・サルサ・シズラー」の3種類を取り寄せる。

種を蒔いたのは4月の始め。初めは調子が良かったが、種の蒔き方が密集していたので苗が徒長し始める。慌てて間引く。それでもなんとかポットに植えるところまでいったが、そのあと、旅行が待っていた。2泊3日の短いものだったが、その間水をやらないわけにはいかない。全部で300を超えるポットなので、水遣りだけでも大変だ。いろいろ悩んだが、近所に魚市場に勤めている人がいるのを思い出し、発泡スチロールでできた箱を分けてもらう。一つの箱にポットを30ほど入れて水を張っておくと上手くいきそうだ。全てを北側の屋根のある通路に置いて旅行に出る。帰ってくると苗は枯れることなく、順調に育っていた。

自分の家と公民館に必要な苗を優先してプランターに植えてみたが、300もある(根切り虫にやられたり枯らしてしまったものもあるが、それでもずいぶん余ってしまった)ものだから、近所の花好きな人に、職場のいつも私の花を褒めてくれている人に、どうしてもあげたかった人(その中には12年ぶりに再会した人もいる)に、半ば強制的にもらってもらった。こういうところから友情は生まれると思っている。

090718友情1

《 さっそく夕食にのぼる破竹の煮物 》

日曜日、外にいると、携帯が鳴ってるよと大きな声で呼ばれる。退職するまで仲良く付き合っていた友だちからである。退職後、途切れていたが、彼が同じ内容の職に再雇用されたことでまた付き合い始める。以前は何年も山芋掘りに連れて行ってくれた。それも近くの山ではなく、別府から湯布院への高速道路沿いの山が多かった。

枯れてしまってかすかに残る蔓の残骸から山芋のある場所を探し出す。まさに名人芸である。小さい頃から、学校から帰るとカバンを放り出し、夕方まで家の前の山に入り込んで遊んでいた。年季が違うと言う。年季もそうかもしれないが、こっちは海の近くに生まれたので、彼の話はまさに別世界の出来事。

車から遠くの山肌に蔓の残骸を見つける。言われてみると黄色くなった蔓の葉がけっこう緑の中に鮮やかに見える。足場の悪いところで汗びっしょりになって芋を掘り出す。この場所で、こういう方向から、こんな風に掘って、と手取り足取り。私がやっと1本掘り出す頃には彼はどうかすると3本くらい掘り出している。私は途中で折ってしまうことが多いが、彼は見事に山芋用の鍬一本で折ることもなく掘り出してしまう。昼には家に帰り着く。それからは何日も山芋三昧。一番は、熱いご飯にすりおろした山芋をぶっかけて。これが最高。

その彼から、「破竹を採ったので、今から持って行く」と。届けて一席ぶつ。「わしゃー、季節の旬のものを追いかけちょる。旬のものが一番。これを食べちょら、絶対身体にいい。冬にはまた行くけ、身体を鍛えちょってな」。もちろんお返しを、と探す。適当なものがなくて、お取り寄せしたばかりの「メロン」を一つ。

くそー! しかし、こういったところから友情は生まれるのである。

090715いのちのバトンタッチ

《 黒ゆり 立山登山道にて 》

金曜日(10日)、文化会館に講演を聴きにいく。今日は、扇城学園の110周年記念講演。講演者がいい。「青木新門」さん。あの、アカデミー賞をとった「おくりびと」の原作者である。

いい講演でした。声もいい(けっこうこれが講演の良し悪しを左右する)し、もちろん内容は聴く前から期待いっぱいで、保証つき。前半はやはり映画ができるまでのエピソード中心。モックンの素晴らしさが際立つ。これでも分かるように、自分のことはあまりアピールしない。できるだけ他を立てるし、この話はもっと聴きたいな、ほかの人だったら当然話すだろうなというようなことをかえってさらっと流してしまう。あとで考えれば、たしかに枝葉のことばかり。それでもなおさらいい話だとなってしまう。

そうそう、その中の一つ。「納棺夫日記」を出版して10年で10万部。それがアカデミー賞をとってから4ヶ月で40万部。おかげで静かに余生を送る予定が狂ってしまい、こんな風に全国を飛び廻る羽目に陥ってしまったとか。そういう目に合ってみたい気もする。

後半になって、演題の「いのちのバトンタッチ」の内容に入る。それも自分の仕事であった納棺夫としての体験からと富山に生まれた者として身体に脈々と流れる真宗門徒としての思いが重なったものとして。死はそこで終わりではなく、それを見つめる人たちに「命の大切さ」として続くものとして。自分がひょんなことから納棺夫の仕事を始めた頃はまだ、家で、家族に囲まれて死んでいく人たちがほとんどだった。それが、今では99%が病院や施設で息を引き取るようになり、死から人々が離れていくにつれ、死を汚いもの、怖いものとしてとらえるようになってしまった。死んだ直後の、どの人にも浮かぶあの穏やかな、あの安らかな顔を見てもらいたい、と。いい話でした。いろんな場面で拍手が起きるし、家内も感激してしまう。

ところが、私の中ではこの話がそこで終わらずに、あちらこちらへとさまよってしまった。おそらく昨日始まった「阿修羅展」のことが頭に残っていたからか。「阿修羅」といえば「光瀬龍」。また、あの本を引っ張り出してみよう。

090712吸殻のある風景

《 風土記の丘から移した捩子花 》

「吸殻のある風景」とはどこかで聞いた言葉。歌の題名?それとも、本の題名?なんかロマンを感じさせる言葉だが、実際はそうでもない。大きな会合や研修会が終わるときまってあちこちに吸殻が散乱している。この「散乱」という言葉がいい。吸殻を見ていらいらしている私の気持ちがこの二文字によく表現されている。これが「落ちている」では単に情景を表しているに過ぎない。「いらいら」までは表現できない。

計量器の定期検査が行われている。案の定、計量器を持ってきた人たちが玄関前でタバコを吸いだした。それを注意に行く。いい大人に注意するなんて、けっこう気を使う。「敷地内は禁煙です。昨日も誰かが吸殻をプランターに突き刺しています。」というと、「わしじゃ、ねー」と腹を立てる。このプランターは私が丹精こめて育てたサルビアを玄関前に飾ったものである。腹を立てたいのは私の方である。どうしてもタバコ飲みはあちこちで言われ続けているためか被害者意識が強い。すみませんという人より、過激に反応する人の方が多い。灰皿を撤去したために、この頃は植え込みの中に吸殻を突っ込んでいることもあるし、玄関前のプランターに突き刺していることもある。マナーが悪すぎる。

吸殻では、とんでもないことがあった。昨年、ある大会当日、中に入らずにホールでおしゃべりをしている人たちの中にタバコを吸っている人がいた。その日は大会の事務局の人に頼んで開会の前に参加者に「禁煙」を呼びかけてもらった。それでもこんなざまである。お互い嫌な気持ちになるのが嫌で見逃したのが失敗。会が終わって点検をすると座っていたイスの下、床の上でタバコがねじ消され、吸殻が放置されていた。あまりのことに事務局の人にきてもらい、確認をし、、片付けてさせた。後日、その会の理事長が謝罪に来たが、「だいたいやった人は分かっているので、注意しておきます」とまで言ってくれたのにはこちらの方が恐縮する。

できれば、ロマンはなくとも「吸殻のない風景」が欲しい。

父の日(090709)

送ってきたばかりの「白糸の滝」の写真

「父の日はいつだったかな」というと、事務所の人が「もうとっくに終わりましたよ」という。そういえば、娘たちからは何もなかったな。連れ合いにとって私は「おとーさん」と呼ばれても、たしかに父親ではない。

だんだんと老いを感じるようになってくると、なぜか自分の父親のことを思い出すようになった。無口な人でした。自分の若い頃のことを話すことはほとんどありませんでした。お酒を飲んだ時に、まれに、どうしたはずみか、若い頃のことをほんの、ほんのちょっぴり漏らすことがあったくらいです。幼い私にとっては、たまに聞く父の話は、考えられないことばかりでした。時代が違うといってしまえばそれまでですが、私がこれまで歩いてきた道とは全くかけ離れたものでした。父の歩いてきた道は、小説になりそうなことがたくさんあります。ところが、私の道には、せいぜい石ころ程度のお話しか転がっていません。

無口な父は近寄りがたい人でした。というより、馴れなれしくするにはあまりに威厳がありすぎて、敬して遠ざけておいた方が無難といった存在でした。

その父が死んでからもうすでに20年が過ぎました。この日曜日、12日が命日です。

090705ほたる3

090630合歓の木 〔 山国・吉野合歓の木 〕

 犬にせがまれて散歩に出ていた上の娘が笑いながら言います。お父さんの好きなもの、見せてあげようか。合わせた掌を近づけます。そっと開いた掌の中から、たった一匹の蛍がやわらかな光を点滅させています。いつの間にか蛍の季節になっていたのです。(61,6,2)

 この上の娘の子どもが私を「おーちゃん」と呼ぶ。サーズの時、就学前だったので、4月から7月まで日本に避難してきた。この時、始めて彼をほたる狩りに連れて行った。それからはこの季節になると決まって電話がかかる。「おーちゃん、ほたる、飛んでる?きれいだったね!」。また、一緒にほたるを観に行くのが夢である。

 下の娘が咳き込みます。時計はとっくに9時を回っています。娘を抱いて外に出ると、向こう岸で小さな灯りがゆれています。もう蛍の出る季節になっていたのです。娘も私も、じっと息をつめて見つめています。ちょうど私たちの呼吸するようにゆらりと舞います。娘の目には、そして、心には、この淡い灯りがどのように映っているのでしょうか。いつか、娘の咳は止まっていいます。(53,6,4)

 こうした体験がきっと人間の豊かさをつくってくれると信じて・・・・。