091021 われもこう

写真集の中で一番の人気。
日本人の感性を刺激するものがあるのでしょう。
作るのは難しかっただろうと聞くと、そのものの形をしたもの(ペップ)があるからそうでもないと。別な答えを期待していたのですが・・・・・

 われもこうとの出会いは何年前だったか。実物よりも、本の中での出会いが先だった。その奇妙な日本語の響きと、思いを寄せる若者を遠くからせつない思いで見つめていた。その足元にわれもこうが揺れていたと、おばあさんが語る本の中の情景が重なって、まだ見ぬその花への憧れが続いていました。

 この秋、すすきを折りに出かけた林道で、その花に出会いました。人気のない荒れた道の傍らで、ひっそりとさりげなく紅の地味な花を細い茎につけていました。その紅は、燃え立つ炎のような思いを、心の奥底に沈めこめてしまうような暗い紅色。湧き上がる思いをそのつど重ねて、たたみこんでしまうほどに紅が深くなる、おばあさんの想いの色だと思いました。吾木香よりも「吾亦紅」の方が、ずっとこの花らしいと思います。

 “自転車いっぱい花かごにして”という本でしたが、それ以来、渡辺一枝さんは私の大好きな作家の一人になりました。暮らしの中の優しさや悲しさ、満ち足りた幸福、そして、時には阿修羅のような人の心の有り様を野の花や木、風や雲などに映して描くその人の本は、私の中にすーっとしみこんでいき、慰められます。

 “空ゆく雲を追いかけて”“気が向いたら風になって”ーこんな題名を見ただけでも、素敵だなと感じませんか。(89,10,3)

091019 かほり(1)

 公民館に着いて、車から降りるとすごい匂いに包まれる。ほんとは「香り」といいたいところなんだが、この匂いはそんな生易しいものではない。昔から、前の家の生垣からこの季節になると、きまっていい香りがしてきた。下の娘が中学生の時、「この匂いがすると秋だなーって思う」と、ちょっぴり大人びて話していたのを思い出す。

 もう分かりましたね。そう、キンモクセイです。ここにはいったい何本あるのか今日は数えてみました。樹高3m.ほどの木が駐車場の上、体育館の一角にちょうど10本も並んでいる。その全てが今を盛りと花をつけて、匂いを放っている。目には見えないけれど、その匂いに包まれているのがよく分かる。しかし、ここまで強烈だと嫌味になってくる。やはり、キンモクセイの香りは、「ほんのり」とか「かすかに」でなければ・・・・

 一番似合っているのは、雨上がりの夕方。辺りが暗くなったくらいがちょうどいい。昨日、お通夜があって、暗くなってから近所の家に出かけました。行きには気がついていたのですが、帰りに生垣に手を伸ばし、一枝折り取る。花盗人の心境です。家で、コップに挿し、鼻を近づけても、歩きながら感じたほどの香りはしない。木全体でゆっくりと時間をかけて、香りを広げているのでしょう。面白いですね。香りをかごうとすると、どうしても目を閉じてしまう。全ての神経を鼻に集中させようとするからでしょう。

 「かほり(1)」と題をつけました。当然、次は「かほり(2)」となります。

091016 コクゾウムシ

 もったいないと思っていつも失敗するので、今年は思い切って切り戻した。
8月の終わりに約3分の2を切る。
それこそ、来る人ごとに「もったいない」や「思い切ったね」と言われたが、ご覧の通り、ほんとに鮮やかな色になってくれた。
そろそろ終わりに近づいたので、これからは来年用の種を採取しようと思う。

 今年の小作米が届いた。米のカンから残った古米を取り出し、半日ふたを開けて風を通した。いつからか、小作米が30キロが5袋になった。それと同時にそれまで自分たちで食べて、兄姉にもいくらか送ることもできたのだが、それ以来、自分たちの食べる分も少し足りなくなった。原因は小作が少なくなったことなのだが、シロ(犬)が毎日1合も食べるからだと、責任をそちらにかぶせたりした。彼も肩身の狭い思いで食べてたのかな。
 しまった。新米がくればやはり古米は食べたくはない。どうしたものかと思案していたら、それでも欲しいという人が現れた。同じ会社に中国から出稼ぎに来ている若い人たちがいて、日本の物価の高さに生活するのも困っている様子なので、もらえるなら彼らにそのお米をあげたいという。冬にも使わなくなった布団をその人を通してあげたので、今回も喜んでもらってもらった。

 それでもカンから取り出す時、いくらかこぼしてしまったのでそのうちのゴミのない玄米を集めたまではよかったのだが、何を勘違いしたのかそれを精米した白米の中に入れてしまった。この頃、こういう「ついうっかり」ということが増えてしまって、我ながら怖くなる。

 時間はたっぷりあると、白米と古米を一粒ひとつぶ分けることにした。初めは要領が悪くいったいいつまでかかるのかと心配になったが、だんだんと要領がよくなる。そういえば、昔、母親から玄米に入っている不純物(小さな石やゴミ、もみがらなど)をこうして取らされていたな、と思い出した。お盆に入れて、それをゆするときれいに並ぶ。それを指ではじいて不純物と分ける。思い出すと、こうした気の遠くなる作業もなつかしいものになっていく。

 昔はこうしたゴミだけでなく、たしか虫もいたなと思い出す。玄米の色と似た、大きさも同じくらい、見分けが難しかった。その当時は、けっこういた(と勝手に思っているだけなのかもしれないが)虫が1匹もいない。いないのもなんだか気になってくる。虫も居れないほど消毒してしているのかと。そうこうしているうちに、虫を2匹だけ見つける。見つけた虫をつぶしながら、ほっとする自分がなんだか笑えてしまう。

 ネットで調べると、「コクゾウムシ」と出ていた。

091015 布花物語(2)

写真集の扉にある映像。
昨日載せた表紙の対抗馬として、連れ合いが最後までこだわったものである。
たしかに前回の展示会ではこの花がメインだった。
こうしてガラスの花器の納まると、気品さえ感じられる。
「しかし」と生徒さんたちは云う。
「先生、上品さも大切だし、こだわるのも分かるけど、やはり、インパクトがないと、だれも手にとってくれませんよ」と。
今回、展示を見送ったのだが、この花を覚えていた人がいて、その方からどうして展示しなかったのですかと言われたそうだ。
明日は持っていくとはりきっているが、作家冥利に尽きる話だ。

091014 布花ものがたり(1) 表紙


30周年を記念しての写真集出版。
写真家の萩さんと巡り合うことで、夢だと思っていた写真集が出来上がる。
口の悪い古くからの生徒さん曰く、「実物よりも美しい」。
写真もだが、その写真からどこを切り取るかで腕をふるってくれた、せいうん印刷の岡本さん(素敵な女性だと聞くがまだ会ったことがない)がいてこその写真集でもある。
その岡本さんがいくつか作ってくれた表紙の見本の中で、だれもがこれこそと言ったのがこの表紙である。
布花と写真とデザインが見事に融合して出来上がった写真集だと、身内ながら誇らしい気持ちである。

これから、自分のブログの合間に、1ページずつ紹介していこうと思っている。

091013 阿修羅展(3) 邪鬼

 阿修羅展に行ってから、1ヶ月が経とうとしている。今更という気もしないではないが、原稿は書いていたのでやはり掲載することにします。けっこう書くことがあるのに、自分で驚いています。それにしても、コメントが来ないなー・・・・

 八部衆、とくに「迦楼羅(かるら)」から離れ難く、何度も後戻りをした。
最後に四天王を見る。寅さんで有名になった帝釈天の家来で、仏教世界の中心に聳える須弥山を守る役目を持つ。東西南北を守るのは、東に「持国天」、西に「広目天」、南に「増長天」、北に「多聞天」。重量感のある筋肉質で、守護神にふさわしい威容を誇る。「広目天」・「多聞天」という文字を見ると、情報収集のスペシャリストで、仏教界のCIAか、それとも、設置された視覚と聴覚のセンサーかなどとついいらんことまで考えてしまう。

 ところが、私のお目当てはカッコイイ四天王ではないのである。お目当ては四天王に踏みつけられている「邪鬼」の方だ。いつの頃からか、この邪鬼の方が気になって、気になって・・・・。邪鬼というからには、当然のことながら“悪しきもの”なんだろうが、四天王の踏みつけ方がどうも気に入らん。顔を踏みつけられてひん曲がっているもの(持国天)。踏みつけられて身体が二つ折りになったもの(広目天)など、まるで虫けらみたいな扱いである。ところが、よく見ると、踏みつけられて苦しいはずの邪鬼の表情が、少しも苦しんでいるようには見えないのである。どうかすると、踏みつけた四天王に見つからないように舌を出しているようにさえ見える。もちろん私の勝手な思いではあるが・・・・。

 これまで気になっていたのは、ここまで虐げるのか、かわいそうではないかという思いであった。ところが、今回、自分の目線の上にある四天王よりも、目の前で、そして、ぐるっと全てを見ることで、気になり方が変わってしまった。待てよ、虐げられた彼らにも、一寸の虫にも五分の魂。ただ負けてばかりでいるものか。今に見ていろよ、という敗者のたくましさを感じて、正義の味方に踏みつけられた彼らの方に親しみがわいてきた。

091010 襲撃

珍しい写真を送ってくれました。
「先日、長者原の自然観察会に友だちと参加してきました。その時の写真の1枚です。
アケボノソウ
黄色い丸い点は蜜腺だとか」

 毎日毎晩、決まって夕食後、洗い物を二人でしてから、散歩に出ている。犬がいた頃は、たしかに散歩だったが、今ではウォーキングに格上げ(?)された。ファミリーマートまで2.4キロ。往復4.8キロを大体50分強で歩いている。

 雨以外休むということはほとんどない。習慣というのは恐ろしいものですね。ビールの酔いがきついなと思っても、連れ合いから強制的に歩かされる。こういうところで逆らわないのが、退職後の長続きの秘訣かもしれない。ところが、この頃生活のリズムが狂って、ここ2,3日、歩いていない。そこで、今日は昼間も歩くことにした。案内状の切手がほしかったし、いつもだと車で出るところを歩こうと・・・。

 米山橋を過ぎたところで、車道に鳥が落ちてくるのが目の片隅に入った。黒い大きな2羽の鳥が。カラスがじゃれあっているのか、あるいはけんかをしているのか。ところが、1羽はすぐに飛び上がって、近くの電柱に留まったが、もう1羽は落ちたまま。けがでもしたのかと車道に出てみると、なんと、落ちて飛び上がれないのは、上がらないのはカラスではなく、「野バト」。歩道の縁から車道にはみ出している草むらの中に逃げ込もうとしている。その慌てた様子に野バトの必死さが出ている。

 よかったな、がんばれよ、と、歩き出そうとすると、電柱に留まっていたカラスが降りてくる。それも、いつの間にか2羽になっている。あわてて石を投げると、また、電柱に留まって、じっとこちらを見ている。その態度のなんと横着なことか。にらみ合いになったが、もちろんカラスの方に利がある。ハトは動かず、私もいつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。おまけに向こうには生きるためという立派な理由がある。

 帰りに見ると、もうカラスもいないし、ハトもいなかった。争った形跡はなかったが、もちろん何事もなかったとも思えない。あのカラスの執念深さからすると、どこかでエサになったと考える方が可能性は高い。それにしても、目の前で生存競争の闘いを見るのは何十年ぶりかである。とんびにカラスが向かっていくのを見たことはあるが、あれは縄張りを主張しての数を頼んでの襲撃。今回は、生死を賭けた襲撃である。ハトがなんとか逃げのびていてくれたらと願うのみである。

091007 「おとこの秘図」・二人の女

 池波正太郎に女性を描かしたら、彼の右に出る作家はいないのではないかと思っている。この小説でも、二人の魅力的な女性が登場する。ひとりは京都で出会う「お梶」。そして、もうひとりは、江戸で妻となる「勢以」。そうか、司馬遼太郎の小説は、いくつかの例外を除いて、そう繰り返し読もうという気になれない理由は、案外ここにあったのかもしれない。彼の小説には女性が、それも魅力的な、生々しく生きている女はとんと出てこない。

 「お梶」。明日、京都を密かに旅立とうという日、運命の(やはりここは女性ではしっくりこない)、お梶と出会う。三人の浪人に難癖をつけられたお梶を権十郎が助ける。お礼にお茶など、という言葉にことわる理由もなく、お梶の営む茶屋「東林」に導かれる。

 「女という生きものが、化粧もなしに、かほどまでに美しく見えたことは、いまもってない・・・・」(202p)というお梶との出会いと狂おしいほどの逢瀬。この場面、つまり、201pから241pまで何度繰り返しくりかえし読み返したかしれない。しかし、お梶は、権十郎はいずれは江戸に帰ることになると知っており、知っているからこそ「権十郎をさそったので」ある。「山口さま。同じ夢は、二度、見るものではないと申しまする」とささやくお梶の声がほんとに聞こえてきそうである。

 「勢以」。江戸に帰り、徳山家を継いだ権十郎が妻として迎えた女性(今度は女ではしっくりこない)。お梶とは全く対照的な、女としての魅力を欠いた妻。その勢以に振り回される権十郎。「なりませぬ」であり「何をなされます」であり、「そのようなことを、あそばしてはなりませぬ」である。なんどもふきだしてしまう。そして、同情する。その勢以が、最後のさいごになって、ある意味、お梶にも負けない魅力的なに変身する。昔、初めてこの本を読んだ時には、お梶の方にしか目がいかなかったが、、ようやくそれが分かる年になったのかなと思う。

 もうひとつ、題名になっているおとこの「秘図」が重要な狂言回しになっている。そのことについても書きたかったが、「秘図」である以上、おおっぴらにはできない。池波正太郎の得意のせりふではないが、「すべてをあかしては、味気ない、あじけない」である。