100407 出雲大社

   

 注連縄に硬貨を投げ込むとご利益があるとかで、若い女性たちが必死になっていた。

 後ろに見えるのが本殿を囲む素屋根。25年5月に工事が終わる。
   
 巨大建築を支えた幻の柱の遺跡が見つかる。  君が代に出てくるあの「さざれ石」
   
「婚儀殿。ここで式を挙げるといくらかかるか?  鏡の池。恋占いの池として有名だとか。

 

 出雲という言葉には特別な響きがある。遠く、淡く、湿り気に覆われた、ぼんやりとしたイメージの響きである。「出雲」という沸き立つ雲の連想からだと思う。歴史のかなたに消えていった種族のことが気になる、そんな年になったようだ。

 たとえば、「出雲族」。営々と築いてきた父祖伝来の地をヤマトの神々に奪われ、隠れた(滅んだ)後もなお監視されるという屈辱を受ける出雲族。いったいどれだけの激しい戦いと多くの血が「国ゆずり」というおだやかな言葉の後ろに隠されているのだろう。たとえば、「物部氏」。天皇家がやってくる前の大和の支配者であり、平和裏(出雲の国ゆずりとそっくりである)に政権交代したと伝えられる物部氏の祖、ニギハヤヒノミコト。彼は、天の磐船に乗ってどこかから舞い降りてきたという。日本書紀には、出雲神・大物主神が天皇家よりも先にヤマトに入り、ヤマトを建設してきたと記されているが、出雲と物部氏はどうつながるのか。ものの本に寄れば、天皇家をも凌ぐ勢力を誇ったといわれる物部氏もいったいどこに消えてしまったのか。

 平安時代の「口遊(くちずさみ)」に「雲太・和二・京三」という言葉があって、日本で最も大きい建造物が出雲大社であったと記録されている。現在の本殿も高さ23m.で迫力があるが、かつてはその2倍・3倍もあったという。あまりの大きさにただの伝承にすぎないと思われていたが、2000年の4月にその証拠となる「心御柱」が発掘された。

 なぜ滅ぼした敵のためにこれほど豪壮な社を建てなければならなかったのか。なぜこれほど恐れなければならなかったのか。なぜ、ナゼ、NAZE・・・・。(3月29日) 

100406 足立美術館

  「いつかは行こう 足立美術館」が私の近年のスローガンであった。気持ちだけはあっても生来の出不精。思うだけで過してきたが、やっとその思いが成就した。足立美術館のスローガンは創始者の足立全康氏の言葉である「庭園もまた一幅の絵画」であろう。この言葉はパンフレットの第一に書かれている。

 ここの庭園の素晴らしさはとてもじゃないが、私の言葉では言い尽くせない。そこで写真の出番である。その写真も館内で販売している写真集にあるものはあまりに美しすぎる。私が撮ったものくらいがちょうどいい。「美術品の撮影は禁止ですが、庭園はどうぞ」ということで、撮ったとった!ここだけで121枚。「生の双幅を通して観る白砂清松と一服のお抹茶」といわれて、美術館内にある茶室「寿楽庵」に入る。

 茶菓子と抹茶で850円。秋月での350円にくらべたら倍以上。松平不昧公の「不風流所亦風流」などがさりげなく床の間にかかっており、かわいらしい女の子が金の茶釜で点てたという抹茶を飲んで、あとはひたすら写真撮影。たしかに双幅の掛け軸のように見えて素晴らしい。次に訪れる時には「喫茶室・翠」に入ってみたい。枯山水から亀鶴(きかく)の滝まで独り占めにできるという。

 ここは横山大観の絵画で知られているが、7年連続日本一になった庭園も見事である。また、それ(日本一)を維持するための努力は並大抵のものではない。たとえば、今ある松が生長するにしたがって、今の形と違ってくるのは当然である。しかし、それを今のままの形に保つために、今から植え替えるための松を別の場所で準備しているという。今年の10月29日に新館がオープンするそうだ。秋の紅葉の季節に合わせて訪れたいものだ。(3月28日)

100404 風土記の丘・宇佐神宮

 桜の時期になると必ず訪れる場所がある。国東半島の香々地少年自然の家の手前、夕陽百選にも選ばれた「粟嶋神社」の参道である。ある方に連れられて出かけたのがもう四半世紀も前になる。この頃は孫を連れて出かけている。海沿いのため1週間ほど満開が遅れる。今年は横にやせっぽっちの男の子が座る。案の定、満開には程遠かった。その代わり菜の花が咲き誇っていた。この頃では菜の花の方が有名になりつつある。

 帰りに「風土記の丘」に立ち寄る。ここは今日の強い風も吹くのを避けてくれたようで、あたたかな陽だまりでは桜はもちろん満開。多くの花見客が飲んで食べて、大きな木の下では大正琴の演奏が行われていた。

 もう一箇所、「宇佐神宮」に向かう。ここでは十号線沿いの桜並木が見事なのだが、私は境内の池のほとりに立つきれいな桜が好きだ。この池では時々カワセミを見ることができる。獲物を求めて水面に飛び込む姿はまさに「飛ぶ宝石」である。この池には6月頃から黄色の小さな花が水面からのぞく。名前を「コウホネ」という。この名前を教えてくれたのは粟嶋神社の桜の君である。

 ここでの一番いい場所に先客がいた。年老いた夫婦が寄り添って弁当を食べている。うらやましくなる光景だが何かが引っかかった。引き上げようとするとその夫婦も立ち上がった。男の方を見て「あっ!」と声を上げた。なんと一つ先輩の元校長さんである。こっちも驚いたが相手もまさかである。こんなことがあるから人生は楽しい、とは大げさか。 

100403 鳥取砂丘

これで砂丘の全て カニが好きでない者には・・・・ 季節の良い時,ゆっくりと

 

 たしかに砂丘ではある。家の近く、三百間の浜にあった砂浜のちょっと大きいやつ、ではない。大きい おおきい。しかし、これからは砂漠は絶対に想像できない。する方が悪いのだが。砂丘といえば、なんか夢があった。ロマンティックな姿を期待していたのに・・・・。これでラクダに乗せてという商売もやっているのだから、悲しくなる。書けば書くほどむなしくなるので、もう、これで、お、わ、り!
 
 砂丘から宿泊先の大山ロイヤルホテルまでは2時間。途中で大荒れの天気になる。嵐といっていい。ガイドさんからは、「だれか今までしたことのない悪いことをしませんでしたか?」と言われてしまった。ところが、それも10分ほどで、始まった時と同じに急に終わってしまった。明日、天気がよければいいのだが。

 2時間かけてということで一昨年の上高地ツアーを思い出した。こういう離れた場所でないと格安のツアーは組めないと理解しているつもりだが、さすがに遠いなあ。ところが、そのロイヤルホテルは満員で、風呂は芋の子を洗う状態。部屋はひとりということで、5千円の追加料金をとられたが、たった一人にベッドは3つ。ぜいたくというか、さみしいというか・・・・・。

 翌朝、素晴らしいとは言わないまでも昨日の夕方に比べたらまさに天国。目の前に見える大山は山頂が雲に覆われているが、そのすばらしい下半身を見せてくれている。夜目・遠目・傘の内というが、「雲の内」もいい。とこれは完全な負け惜しみ。なのに、初めの休憩地(というより、「お土産買え地」)に着く頃には少しみぞれ交じりになってきた。前途多難。 

100401 姫路城

 世界遺産というだけのことはある。これほど雄大で・・・・・、豪華絢爛さにはあきれるほどだ。もともとは当時小寺官兵衛と名乗っていた黒田如水が居城とし、秀吉の中国攻略の拠点として差し出した小さな山城であった。関が原で勝って天下人となった徳川氏も、西国大名、特に毛利氏とそれ以上に島津の力が不安(ひょっとして怖かった)だったようだ。江戸を守る第一の砦としてはこれ以上はないほどの力を注いだ。豊臣氏の居城であった大阪城、そして、徳川御三家の一、尾張徳川家の天下普請と言われた名古屋城に負けない規模を誇る。

 4月の12日から平成の大修理に入り、天守は素屋根で覆われて見ることがかなわなくなるそうだ。そのあと終わるまで約5年間の歳月がかかるために、今のうちにとたくさんの人が押し寄せるようになったという。10時過ぎに入場するのに待ち時間は60分と表示が出ていた。同じツアーの人たちもほとんどが天守閣の頂上まではたどりつけなかったという。私もその口である。とてもじゃないがじっと待つ気にはなれない。

 姫路城のあの美しさは美しさを追求したものではなく、城としての機能、つまり、戦いとしての役割を求めた結果である。それはそうだ。だれが生きるか死ぬかの中で美しさを求めるものか。機能としての美しさ=機能美だとは分かっていても、やはりその美しさには驚嘆する。しかし、天守の白壁はうす汚れ、屋根瓦も汚れて一部波打っているような印象を与えている。西ノ丸の方は修理が終わっていた。千姫ゆかりの化粧櫓と百間廊下は白壁本来の白さをとりもどし、瓦も新しくなって鮮やかである。5年後の天守閣はそれこそ「白鷺」に例えられる美しさを見せてくれるだろう。

 4月4日には香港から帰ってくる孫を京都まで送っていく。途中、姫路城を見せてほしいと娘に頼まれたが、こんなに待たなければならないのなら行かなきゃよかったと今は後悔している。 

100331 おいしいお茶

4枚頂いたうちの1枚

 
 携帯をかけ、「もしもし・・・」と言ったきりあとが続かない。電話から聞こえてくる「はい!」という声が懐かしくて・・・・。「あっ!、彼の声だ」。もう25年は経っているのに、耳に入ったとたん彼の声だとはっきり分かった。

 耶馬溪中学校から三光中学校へ異動した時、、同じ国語科の若い先生と一緒になった。たしか教員になって3年目だったと思う。新卒3年という制度のため1年だけの付き合いだったが、とても印象に残る先生だった。以前「真摯」という言葉を使ったが、まさにその言葉通りの方だった。私も2度の文部省の地域指定に担任として、また、組合運動にも関わって、素晴らしい人たちを知ることができ、長い教員生活のうえで最も充実した時代だったと思う。そうした時に触れ合うことのできたことを幸せだったとつくづく思う。

 その彼とブログを通してまた交流を持つことができるようになった。「・・・いま西部中学校の校門前の桜並木が3分咲き、校庭の桜も土日が見ごろです。宇佐別府道路四日市インターを降りてすぐです。お近くを通ることがありましたら是非お立ち寄りください。おいしいお茶かコーヒーを、お好みで。ちょっと一服していただけると思います」とコメントが届く。

 インターを降りたところでわざわざ待っていてくれた。学校まで案内するというが、校門前の坂道を見てその意味が分かった。現在の西部中学校は旧四日市高校の跡地に移転したのである。下の娘が1年間だけ臨時講師として通った高校であり、何かは忘れたが一度だけ彼女を高校まで送っていったことがある。その時、この坂道が印象に残っていた。なぜって、いかにも学校、それも高校の校門前の情景にぴったりではないか。

 校長室でおいしいお茶(今日のためにウーロン茶の一種「鉄観音」の封を開けてくれたという)の接待を受け、なつかしい思い出と満開の桜とすばらしい書(4枚もいただいた)と、ほんとにすばらしい時間を持つことができた。おまけに、事務の先生を紹介してくれて、その先生からもブログを見てくれていることをうかがった。あつかましくも「コメントを!」とお願いしたが・・・。 

100330 CM(サントリー)

いろいろ探したのですが、内容にあった写真を見つけることができませんでした。

 

 かつて、サントリー・資生堂・松下電器の三社がCMの御三家と呼ばれた時代があった。その中でもサントリーが一歩抜きん出ていたように思う。

 S58年にはサントリーからローヤルのCMでランボーが出た。小人・イグアナ・砂漠に大道芸人。おまけに音楽も中近東風ときているから、これがどうしてウイスキーの宣伝なんだと作った本人のサントリーの社内が賛否両論に分かれ、侃侃諤々だったとか。ところが、このCMは文明批評とまで言われ、中年のインテリー層を含む若者に圧倒的に支持された。専門家といわれる人たちよりも一般大衆の方が時代の流れに敏感だったという好例ではないだろうか。ランボーのように自分の思うままに、やりたい放題の生き方が閉塞した社会に生きていく人たちに受けたのである。今の時代にも通用するCMではないか。と、今では屁理屈をこねるが、初めてこのCMを見た時の印象は「なんじゃー、こりゃー」だった。

 この58年には缶ビールの宣伝にペンギンのイラストを使っている。あのイラストは宣伝部の女子社員が描いたものがもとになっているという。それに松田聖子のコマーシャルソングがついて大ヒットしたのである。ペンギンのひとしずくの涙が印象的だった。

 もう一つ、同じ年に田中裕子を使った樹氷のCMがある。彼女の「タコがいうのよ」という得体の知れないつぶやきが話題になった。

 この58年はサントリー宣伝史上、、特別な年であったようである。

100325 キャロル・キング

   

 テレビの画面に「キャロル・キング」が映し出されていた。たまたまつけた、それがBS-TBSであっただけ。おまけに夜の11時を過ぎていたために「SONG TO SOUL ジェームス・テイラー」という番組に出会った。そこで彼が歌っていた曲「You’ve Got A Friend」に聞き覚えがあった。その曲は私にとっては「キャロル・キング」の歌であるはず。「All you have to do is call/あなたが呼んでさえくれたなら And I’ll be there/私はすぐに飛んで行く You’ve got a friend/あなたには友達がいる」

 私より3つほど年上だった。だから、もう70近くになっているはずなのに、なんと素敵な、かわいい人なんだ。素敵に年をとったなあと思う。私たちの年代にとって「Carole King」という名前は特別な響きを放っている。フォーク全盛からビートルズに時代は移り、彼らが時代に与えた高揚も沈静化していく醒めた時代の中で、さりげなく、心地良く、しかし確かな手応えとともに彼女の歌声は、私たちの心の中に浸透していった。

 最初は残念ながら彼女の歌からではなく、彼女のこのかわいさから好きになった。「けっして美しいとは言えない普通っぽい容姿と けっして超一流ではない歌唱力もまた、ひとつのポイントだった」とある評論に書いてあったが、そうかな、美しいと思うけどな。ピアノに向かい、淡々と歌いつづる彼女は本当に美しい。昔むかし、一度だけ彼女に似た人とすれ違ったことがある。 

 大傑作アルバム『TAPESTRY(つづれ織り)』が世に出たのが1971年2月。このアルバムはその年のグラミー賞の主要4部門を制覇した。売り上げは2,200万枚を超えるという。その絶頂の6月にカーネギーホールでコンサートが行われた。その時のライブが四半世紀経って(1996年)CDとしてよみがえった。いまそのCDが私の手の中にある。