110516 津和野紀行9(橋の名前)

   

 津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツに持つといわれている。遠い昔、この地に住み着いた人々は、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、自分たちの住む野を「つわぶきの野」から「つわの」と呼ぶようになったというのである。そのことばの響きの中にはこの地に対する彼らの誇りとツワブキの葉の艶やかさに通じる美意識とかすかな自慢めいたものが感じられて好ましい。
 そうした美意識は今も残っているようだ。帰りは県道13号を通る。別名「つわぶき街道」と呼ばれている。運転しながら気がついたことがある。それは橋とはとうてい言えないほどの小さな橋に名前がついており、それぞれに大きな標識が立てられているのである。それも普通使われる地名に由来するものではない。「つわぶき橋」など津和野に由来することばを冠するところに美意識と誇りがにじみ出ていて、「感じいいね~!」とこちらの気持ちも明るくなってきた。ところが、帰り着いたら覚えたはずの名前をほとんど忘れてしまっていた。
 なんとかこの感動を伝えたくて、厚かましくも津和野町の観光課に電話して教えを請う。応対に出た若い職員の方が調べてくれて、県道なのでと「県・津和野土木事業所」を紹介してくれた。土木事業所では管理課長さんが丁寧にファックスで地図まで送ってくれ、おまけに「橋梁の看板に目を留めていただき、連絡をいただいたことを大変うれしく思います」とまで言ってくれた。
 私の厚かましいお願いを受け止めてくれて、丁寧に対応してくれた観光課の職員さんと土木事業所の管理課長さんに、改めて感謝の意を表したいと思う。これだから人とのふれあいは止められない! 

110515 津和野紀行8(四季の詩)

     
全景  レストラン  朝食 

 5時前に今日のお宿「四季の詩」に到着する。山の中にあるペンションだ。まず豆茶の接待を受ける。とにかく歩き疲れて汗をかいたので、何はさておいても風呂に入る。風呂に入って「ほっと」するのは久しぶりだ。
 チェックインする時、ここにはテレビはありませんから、といわれた。始めは戸惑ったが時間が経てば慣れるもんだ。夕食は6時半からなので、ベッドに寝転んで今日一日のことを思い出しながら、キーワードになる言葉をノートに書き出している。こうしておくとあとでブログの原稿としてまとめるのにずいぶん助かる。
 

     
     

 4組、9人の宿泊である。夫婦でやっているのでこのくらいがちょうどいい。夕食はレストランで。美味しかった。それにしてもビールとワインを2杯も飲んだので、奥さんの言うメニューの名前が全く頭に入らなかった。もう一度風呂に入ったらあとはただ眠るのみ。 

110514 津和野紀行7(SLと源氏巻)

 「いい写真が撮れたら○○くんに送ってあげたいね」という。東京に住む下の娘の子どもは3歳になったばかりだ。昨年、姪の結婚式で東京に行き彼に会った際、ミニカーをありったけ持ち出してきて名前を教えてくれた。とにかくミニカーが好きだ。今は車だけでなく電車にも興味を持ち出したという。
 3月から11月までの土・日・祝日に、山口線のうち新山口から津和野まで一日1往復、蒸気機関車が運行されている。SLやまぐち号(貴婦人)の愛称で親しまれている「C-571」。駅に停まっている姿や動き出して煙を吐いている姿も踏切から撮ることができた。

     
     

 4月25日の「桜紀行(菊池公園)」の最後に、「30・1日に1泊で津和野に行きます」と書いたら、安曇野の住人からさっそくメールが届いた。「津和野ですか。名物源氏巻が懐かしい」と。公民館も辞めたのでお土産を買う機会がなくなったが、津和野の名物は「源氏巻」一色のような雰囲気だったので、自分のために「源氏巻」をお土産として買った。
 美味しかった。これならもうすこし買って帰ればよかった。

 

110513 津和野紀行6(太鼓谷稲荷と鷲原八幡宮)

 鷺舞で有名な「弥栄神社」の先の山に日本五大稲荷の一つといわれる太鼓谷稲成が見える。ここは願望成就の「成る」を使って「稲成」としており、日本全国でここだけだそうだ。朱塗りの拝殿が見事で五大稲荷の一つといわれるだけのことはある。参拝道には信者が奉納したその数が実に千本といわれる「千本鳥居」がトンネルとなって壮観である。
 気がつくとたくさんのカメラマンが集まってきている。三脚をセットしたり本格的だ.聞くと、もうすぐ下の津和野の町の中を「SL」が通るというのである。ここが絶好のスポットだそうだ。SLについてはまたあとで取り上げる。

     
     

 町外れには鷲原八幡宮があり、ここには日本で唯一原型を留める「流鏑馬の馬場」が保存されている。保存されているだけでなく、毎年4月の第2日曜日に流鏑馬神事が行われ、多くの見物客で賑わうという。上で書いた「鷺舞」とこの「流鏑馬神事」は一度は見ておきたい伝統文化である。

     
     

 

110512 津和野紀行5(安野光雅と森鴎外)

 鯉の米屋のすぐ近く駅前に、この町で生まれた世界的な絵本作家「安野光雅」の美術館がある。作品を展示するだけでなく、小学校の教室、図書室、はてはプラネタリウムまでが併設されている。こうした何々施設というのにはあまり興味のない私もここだけは必ず訪れようと意気込んでいた。司馬遼太郎の「街道をいゆく」の挿絵を前任者の須田剋太画伯のあとを受けたことでしっていたかである。

     
     

 津和野といえば「森鴎外」である。小説家としても文豪として呼ばれ、医者としては軍医として医務局長にまで登りつめた鴎外も、生前から「津和人、森林太郎として死にたい」と望んでいたという。永明寺にある墓にはたしかに「森林太郎之墓」とのみ刻まれていた。

   
   

110506 津和野紀行4(本町通り)

 本町通りには旧い商家が軒を並べる。

   
俵種苗店  酒蔵(初陣) 
   
さゝや(呉服店)  高津屋(薬屋) 

 本町通りを抜けると、通称「鯉の米屋」と呼ばれる「吉永米店」がある。店の前で車を洗っている若い女性に、「ここは・・・・・」と言った途端、「鯉でしょ。どうぞ入ってください」と手馴れたものだ。たしかに「鯉のおる米屋です/遠慮なくお入りください」の看板も出ている。店の中を通り抜けると先客がいる。小さな子どもが餌を投げると、鯉の上に鯉が乗ってきて凄まじい光景となる。昔はけっこういろんな家でこうした光景は見られたらしい。
 

   
   

110505 津和野紀行3(殿町通り)

 津和野は小さな町である。津和野川に沿って、周囲を山に囲まれた小さな町である。「小さな町」ということばを繰り返しているが、この言葉は津和野駅前に建てられたテントにいた、おそらくボランティアであろうお年寄りから聞いた言葉である。「どこから来られたのですか? 大分から! こんな小さな町にわざわざ来ていただいて・・・・・・」。たしかに、駅からゆっくりと30分も歩けば町並みを通り抜けてしまいそうである。
 津和野といえば、「山陰の小京都」。本町通には旧い商家が残り、殿町通りには掘割に水が流れ、今も鯉が泳いでいる。

     
掘割と鯉  多胡家老門  藩校養老館 

 どちらといえば彩りの少ない通りに、急に鮮やかな建物が目に入る。ゴシック様式で建てられた気品のある教会である。中に入ると床は畳敷きだ。その畳の上にステンドグラスを通して鮮やかな光が落ちている。小さな子どもが懸命にその光を踏もうとしているのが絵になる。
 

     
     

110504 津和野紀行2(静かな町)

偶然だが人影が途絶えた 11月をもって休業とあった  

 「アンノン族」ー懐かしいひびきだ。おそらく今の若者には何のことか分からないだろうが・・・・。1970年の大阪万博で国内旅行が定着し、その当時、国鉄(これも懐かしい)が“ディスカバージャパン”のキャンペーンを始める。同じ頃創刊されたファッション雑誌“an・an”と“non-no”が多数のカラー写真による旅行特集を掲載し始めた。美しい写真や記事に刺激され、これらのファッション雑誌を持った若い女性たちが特定の観光地に押しかけたので「アンノン族」と命名されたのである。旅行など全く縁がなかったが、年代的には私たちも辛うじてその仲間の一員であった。
 そこで紹介された観光地はそれまでのいわゆる観光地ではなく、各地の小京都と呼ばれる洒落た場所に代表される、つまり癒しが目的の場所に彼女たちは訪れたのである。そして、山陰の小京都と呼ばれたここ「津和野」にもたくさんの若い女性たちが押し寄せた。
 ところが、そうしたイメージは見事に覆された。連休の初日というのに「えっ、これだけ!」という観光客である。ましてや若い女性たちはいったいどこに隠れてしまったのだろう。特定のお店にだけに人は集中し、つぶれたお店や空き家も多く見られる。小京都というイメージの持つしっとりと落ち着いた雰囲気ではなく、町全体が暗く静まりかえった印象である。70年には15,412人いた人口も現在では約半分の8,348人にまで減ったという。