230720 神戸京都43(竜安寺3三笑橋)

「三笑橋」を渡る(といってもただの石畳にしか見えない。改めて写真を見ると、たしかに石橋だ)と、
その先には庫裏へと続く長い石段が続いている

今はカエデの緑が覆いかぶさるように溢れていて、その先の庫裏がよく見えない
石段の両側にはひし形をかたどった低い竹垣が設けられている
その独特の姿から「竜安寺垣」と呼ばれている
その先に庫裏が見えてくる
ここでも白壁と柱の木組みのコントラストが美しい
庫裏とはもともとはお寺の台所であったところだが、
竜安寺では今は一般拝観の入り口として使われていた

※気になったので「三笑橋」の意味を調べたけれど、どうしても見つかりませんでした

230715 神戸京都42(竜安寺2鏡容池)

山門をくぐるとすぐ左手に池が見える
竜安寺ができる前からこの地にあったという池で、
かつてはおしどりが群れ遊んだところから通称「おしどり池」と言われ、
平安時代には石庭よりも有名だったそうだ
それが周囲の木々や草花を池の澄み切った水が映し出すところから、いつしか「鏡容池」の名前が付けられたとか
けっこう広い池で、平安貴族が竜頭の船を浮かべて遊んだそうだ
今は睡蓮が水面を覆っている

池には島が二つあり、弁天様の祀られた「弁天池」と虎が伏せている姿に似ているところから名付けられた「伏虎島」(←クリック)がある
虎に見えるかどうかは異論のあるところ

230710 神戸京都41(竜安寺1山門)

金閣寺からは1,5㎞ 20分程か
衣笠山の山すそに沿って狭い道を歩く
「石庭拝観通路」という看板が立っている

その先に「山門」が見えてくる
禅宗の山門にしてはずいぶん小ぶりに見える
昨日、南禅寺の特大の山門を見たばかりなので余計にそう見える
その分、緑に覆われて風情がある

 

230705 神戸京都40(金閣寺6夕佳亭)

「夕佳亭」 読んで字の如し
「この茶室から見る夕方の景色が特に佳い」ということでしょう
この茶室には知られたものが三つあります
ところが、狭いところに写真でもわかるように芋の子状態
「南天の床柱」はばっちり撮りました
南天は普通高さ1mもならないはずだが、
この床柱、ほんとうに南天なら(疑ってすみません!)、超、超、貴重なもの!!

「不動堂」 石造りの不動明王が祀られている
弘法大師の作と伝えられ、首から上の病に効果があるとか
年ですので、一応煙だけは浴びておきました

帰りの坂道です
この人の多さ、さすが金閣寺です

 

230701 神戸京都39(金閣寺5龍門の滝)

「龍門の滝」(←クリック)  大分県にも同じ名前の滝があったはずだが・・・・
そうそう昔、孫を連れて行き、滝滑りをやりました
中国の故事・滝を登り切った鯉が龍に変身するという「登竜門」にちなんで「鯉魚石」が置かれています
まあそう言われれば見えなくもないといった程度
鯉の水浴びです

「安民澤(あんみんたく)」 境内の奥深い森の中にある池
金閣寺ができる前からあったそうで、この水が「鏡湖池」に流れている
池の中央にある島には西園寺家の守り神といわれる「白蛇の塚」が建っている
と、ここまで書いたところで昔見たアニメを思い出した
「白蛇伝」

 

230625 神戸京都38パート2

新たに写真が2枚出てきたのでパート2を作成します
前回は「お手洗いの水」でしたが、
「義満公 御茶の水」というのが2枚ありましたので付け加えます

昔、保育園の隣に小さな畑が1枚だけポツンとあった
何度か母親に連れられて草取りに行ったことがあったが、保育園ができる前に業者に売った
その畑の片隅に「黒田官兵衛のお茶に使用した井戸」と我が家だけで伝えられていた井戸があった
こういう話はすぐ上の兄が詳しかった
うちの家は上毛町の西友枝の山奥から兄弟二人で流れて来て住み着いたとか言ってたな
おそらくこんな話も私の代で絶えてしまうんだろうな
本家も我が家も娘しか生まれず、みんな都会に出て行ったのであと何年かで林〇家も消えてしまうんだろうな
それも人の営みか・・・・・!

230625 神戸京都38(金閣寺4巖下水)

「巖下水」 「がんかすい」と読みます
「厳」ではありません
パソコンでなければ到底書けない文字です
看板には「義満公お手洗いの水」と書かれています

ネットで調べていたら、なんと、
「足利義満がウンコを垂れ流した後の、ウンコが少しついたかもしれない手を洗い清める場所だったようです」とありました
こうしたことを真剣に考え、真剣に書いている人の顔を思い浮かべて、
つい笑ってしまいました
そうした顔を「謹厳実直」というのでしょう

230620 白馬三山

ハガキの最後に「長年付き合ってきた友人だと思っていたのに」とありました
嬉しかったと同時にまた私の悪いところが出てしまったなと反省しきりです
あなたとの関係で今でも思い出すことを記します

「われもこう」を見に行こうと玖珠の山に連れて行ってくれました
他とごちゃごちゃになっていると思いますが、
近くにあった板を風除けにしてコーヒーを沸かしてくれました  美味しかった!!
鹿嵐山ではコンロでラーメンを作って食べさせてくれました
玖菩提に行った時は凍った滝を見た後、駐車場でスリップした時の対処法を見せてあげるとホンダCR₌Vを怖いほどスリップせていました
いいおっさんの少年らしいところがカッコいいなと思っていました
カラマツの林が光に揺れる時の幻想的な光景を話してくれました
あの時からまたいつかは安曇野に、と思っていたのかな
吉富亭での飲み会を二人で抜け出して(?)中津駅まで歩きました
その時の話にしておきます
その時、山登りの友達で早世した女友達がいて、お母さんから連絡があったんだよ、
なんていうような話だったと思う  辛そうでした
私が公民館に勤め始めた年、先に勤めていた耶馬トピア(?)を辞めて長野に行き、日本アルプスを堪能するまで登ってくると夫婦で出かけて、
一年後には安曇野に住むことにしたと、電話が・・・・・
その後のブログに書いたような気がする
私は一つの土地にしがみついていくしか能がない、つまり弥生人なんだけど、
あなたは縄文人のように生きていくんだろうな、と
そんな意味での「腰の定まらない人」なんです
「友だち」では恐れ多い  私はずっと「師匠」だと思ってきました

4月の終わりに3泊4日で「鎌倉散歩」をしてきました
その時はこんなに歩けるんだと連れ合いに自慢していたら、急にあちこちに痛みが出てきて、
そんなこんなですが、あと何年生きられるか
そんなわずかな時間ですが、よろしくお願いします
あえてブログで返事をします

ここまでは6日にアップした時の原稿です
その後、7日に宗像に出かけました 楽しい一日でした
13日(?)、辻先生の葬儀に参列しました 85歳でした
19日、一年ぶりの記念病院です うんざりするほど待たされました