100307 小椋佳(木戸をあけて)

3月1日、「春のような陽気かと思えば今日は雪が降りました」という便りと一緒にこの写真が届きました。久しぶりの「安曇野通信」です。雪が解け、山に登れる日を今か今かと首を長くして待ち望んでいることでしょう。安曇野に行ってからもう4年が経ったはずです。

 
 小椋佳はこれまでに2,000曲を超える歌を作ってきたという。無茶な話だと思うが、あえてその中から自分の1曲を選ぶとするとこの「木戸をあけて」になる。これも自分だけの1曲だからできたことで、また、理由はと言われても好きだからとしか答えようがない。いつの間にかこの曲が私にとっての小椋佳になっていたのである。本当のところ、理由として考えられることはいろいろと浮かんではくるのだが、それを言葉にしてしまうと全てが嘘になってしまいそうで・・・・。

 作られたのは1972年という。とすれば40年近く前の歌である。副題に(副題なんてついた歌があるなんてそれまで私は知らなかった)ー家出する少年がその母に捧げる歌ーとある。私も二十歳を過ぎたばかりで、まだこうした甘い言葉に動かされた年代である。いまでもその傾向は残っている。というより、年を重ねるごとにその思いは深くなっている。それで、自作のCDを作った時、「木戸をあけて」を最初と最後に入れておいた。
 
 あなたの後ろ姿に そっと別れを告げてみれば
 あなたの髪のあたりに ほっと灯りがさしたような
 裏の木戸をあけて ひとり夜に出れば
 灯りの消えた街角を 足も重たくなるけれど
 僕の遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない

“100307 小椋佳(木戸をあけて)” への5件の返信

  1. Gegege no Hiro

    先輩、こんにちはです!
    「木戸をあけて」堪能させて、いただきました。
    副題を知って、情景が目に浮かぶようになりました。
    少年の「ナイーブな感性」が先輩の内なる深層に
    流れていることに感服いたしとります。
    「CD」ありがとうございました!

  2. 宇佐の虎ファン

    アルバム小椋佳1を聴いて、本当に20年ぶりに小椋佳の世界にふれました。「邂逅」が話題になっている時期にも重なって、しみじみとした感慨にふけっています。彼はまさに昭和の吟遊詩人と言っていい人ですね。若いころむさぼり読んだ三木清の「孤独は山になく街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にある」という言葉や、倉田百三の「愛と認識との出発」といった本の思想が基調として流れていて、久しぶりに引っかかるフレーズが多く繰り返し聞いています。彼やさだまさしに共通する擬態語や擬音語の巧みさにも惹かれますね。「ほっと灯りがさしたような」なんて素敵な比喩でしょう。唸ってしまいます。

  3. おーちゃん

    今も小椋佳を聞いています。夜のウォーキングから帰り着いてipodを聞きながらパソコンを開けたら、あなたともう一人高校の後輩からもCDについてのコメントが入っていました。「孤独は山になく街にある」。すごい表現ですね。

  4. 中津のかーとちゃんより

    もし、よかったら分けてください。
    現在、自分用のCD1枚も持ってない人間として
    持つ資格があるのかないのか分からないのですが
    幸い小椋佳さんは知ってるし
    優しい歌い方をする人で、最近テレビでも時々映っているのを見ました。

    卑しい人間として、要求の方が先になりましたが
    毎日ブログを開いて読ませていただいてます。
    自分のブログと比べて何か正反対のような内容ですが
    真似できない分
    目の付け所、感性が参考になります。

  5. おーちゃん

    もちろん差し上げます。もらってください。これまで強制的に送りつけたことはあるのですが、正直な話、注文があったことはありません。
    早速送ろうと思うのですが、すみません、あなたの住所が分かりません。
    まてよ、そうか。君か!分かりました。ごめんなさい。送るか、23日に会った時に渡します。

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